それは『天下の達人!4本勝負』というテレビ番組だった。日付ははっきりしないが、調べてみると、1992年4月4日から1993年3月27日まで放送された番組(ウィキペディアは便利だ)のようなので、TSPトピックスでの論争からさほど時間が経っていないと思われる。
その番組で、元世界チャンピオンの長谷川信彦が卓球の達人として取り上げられたのだ。長谷川のロビングや3球目ドライブなど、まさに達人といえる技が紹介されたのだが、その中で、ラリー中の長谷川の顔がアップになる場面があった。
当然私は録画をしてあったので、その場面を使って、長谷川がインパクトを見ているかどうかを、その視線で確かめることを思いついた。
1コマずつ送りながら、私はテレビの前で「あーっ!」と声を上げた。
本当に声を上げた。
長谷川は、ボールがネットを超える当たりまでは確かに顔の正面でボールを見ているようだが、その後は、顔だけがボールを追い、視線はネット付近に固定されたままだったのだ。
長谷川は、卓球界では自他ともに認める基本に忠実な選手であった。「私は咳をするときでもゴホンゴホンではなくキホンキホンと咳をすると揶揄される」と自分で言うほど基本に忠実であることを自認していた。当然、顔の正面でインパクトを見ることの必要性を誰よりも強く主張していた。ほとんど後ろを見ているほどの首の動きにその意識が明瞭に表れている。
その長谷川がボールを見ていないのだ。しかもこれは実戦ではない。ワンコースのピッチ60回/分の緩いフォア打ちで連続して何本もこの目の動きなのだ。
それは、私がそれまで漠然と感じていた不安が現実のものになった瞬間だった。
実は私はそれまでも、卓球選手がインパクトを見ている写真がないことには気がついていた。にもかかわらず、なぜインパクトを見ることが正しいと思えたかといえば、撮影タイミングの問題があったのだ。
静止画で撮影する場合、ちょうどインパクトをとらえることはかなり難しい。しかもそれがわかるのは現像しプリントしてからなのだ。そのため、インパクトの瞬間をとらえた写真はほとんどなく、インパクト直前か直後であることがほとんどだったのだ。
よって、それらの写真の視線が前方を見ていたとしても、旧来の常識を信じたい私は「これはインパクトではないからだ、インパクトの瞬間にはきちんとインパクトを見ていたはずだ」と考え、常識を疑うことを避けていたのだ。
「人は自分が見たいことだけを見る」心理が働いていたわけだ。
動画をコマ送りして、長谷川がインパクトを見ていないことがわかると私はすぐさま200冊を超える蔵書のインパクト付近で視線がわかる写真をかたっぱしから調べた。
当の荻村伊智朗を始め、インパクトを見ている写真は皆無だった。
そう、卓球界では大昔から、インパクトを見ている選手はいなかったのだ。
そこで私は、自分がどうなのかを撮影してみて愕然とした。私はインパクトを完全に見ていた。これは自慢ではない。才能がないということなのだ。
一流選手たちは「インパクトを見よう」という意識さえも裏切って「インパクトを見ていては卓球などできない」ことを体が判断し、現代と同じ実用的な目の使い方をしていたのだ。
それを言葉通りに真に受け、愚直にも実行していたということが才能がないということなのだ。
この顛末を私はかなり前の『奇天烈逆も~ション』に書いた。さして話題にもならなかったが、これが「卓球選手は大昔からインパクトを見ていない」と活字にした日本で最初である。
2回目はそれを書籍化した『ようこそ卓球地獄へ』だから、ほとんどの卓球人は未だに間違った伝説を信じているものと思われる。
「インパクトを見る」ということを論じるのなら、最低でもこれくらいのことは調査してからにしてほしいものだ。そりゃ無理か。