年別アーカイブ: 2014

日経新聞の書評に!

今日の日経新聞の夕刊の書評になんと『ようこそ卓球地獄へ』が取り上げられている。「目利きが選ぶ今週の3冊」というコーナーで、スポーツライターの藤島大という人が、マイクタイソンについての本と、サッカーについての本と並んで『ようこそ卓球地獄』を星4つで選んでくれているのだ。

感激だ。あんまり嬉しいので全文を引用しよう。

高貴なる競技なのに、ちょいとマイナー感がつきまとう。列島唯一の「卓球コラムニスト」の軽妙でふいに鋭利な筆致を支えるのは主流でない自覚と愛と自尊である。

さすがプロだ。たったこれだけの限られた字数でこの本の本質をなんと的確に表現し得ていることか。これがセールスにつながればなお良いが、正直に言えば、これまで読んでくださった方々の評判でもうとっくに満足している。

 

気になるアナウンス

駅のホームでのアナウンスで気になるところがある。

分かりやすいように気を使っているためだと思うのだが、駅名の前後の間を異様に空けるのだ。

「次の電車は中央特快    立川   行き    です」

という言い方だ。あんなに間を空けなくても普通の会話のペースでアナウンスしてよいと思うのだが、あれはやっぱり日本語がよく聞き取れない外国人向けなのだろうか。それならまだわからないこともないが、英語でのアナウンスのとき、たとえば盛岡などの駅名をモリオーカーなどと英語風のアクセントで言うのだけは勘弁してもらいたい。いったい何のためにあんなことをするのだろうか。せっかく正しい日本語を覚えようとしている外国人の妨げにさえなるではないか。ここでそのアナウンスを表現できないのが残念だ。ワタシ、ニホンゴワカリマセーン式のよくある日本語の下手な英語圏の外国人の日本語の物真似そのままなのだ。誰のためにあんなことをするのかと、聞くたびに苦笑している。

思わぬ理由

コンビニの店員がいちいち「カードで?」と聞きかえす理由が分かった。カードで払うと、店側が一定のパーセンテージをカード会社に払わなくてはならないので、彼らはなるべく現金で払ってほしいというのだ。そのため、少しでも客にプレッシャーをかけるために聴くのではないかという推測だ。

しかし、そういう背景がわからないと、いくら聞き返されたところで、いったい何を期待して何を聴かれているのかもわからないのだからまったく無駄な努力である。

ガムを買おうとしてレジに持って行って、本当は別のものを買ってほしい店員に「ガムですか?」と聞かれるようなものだ。わかるかそんなの。

カードでよろしかったですか?

私は買い物をするときは、どんなに少額でもクレジットカードを使える店ではクレジットをカードを使うようにしている。現金を補充する手間を省くためだ。以前はそんなことはしていなかったのだが、アメリカで生活していたときに、アメリカ人がみんなそのようにしていて、真似をしたらとても便利だったからだ。以来、日本に帰ってきてからもそれを続けている。

それで、コンビニでも必ずカードを使うのだが、店員とのやりとりでいつも嫌だなと思うことがある。レジでカードを出すと必ず「カードでお支払いでよろしかったですか?」などと聞かれるのだ。こちらがカードを突き出しているのにカードを使いたくないということが有り得るのだろうか。最初、質問の意味が分からず「は?」と聞き返したほどだ。もしかしてポイントカードと間違えてクレジットカードを出していることでも心配しているのだろうか。それなら現金を出していないことと矛盾しているし、仮にそうだとしても、それはカードを出した客のミスなのだから、バカバカしい確認などせずに迅速に処理をしてほしいものだ。

しかしこれはどこのコンビニに行っても同じように聞かれるので、そのような教育をされているのだろう。ファミレスの「よろしかったですか?」という異常な過去形の言葉遣いとともに、どうもこのような、何事かを心配した過剰な応対というのは嫌なものである。いわんや居酒屋の「喜んで〜」をや(そんなに働くのが嫌か?)。

頼むから普通にしてほしい。

満員電車での善行

昨夜、新宿から厚木に向かう満員電車の中で良いことをした。足が悪く杖をついたオヤジが、酔っているのか素面なのかわからないが立ったままブツブツと「みんな自分のことしか考えない」「人を助けてあげようとか思わないのか」なんて怒ったような独り言を言っていた。そしてついに目の前の自分と同じくらいの身長の若い女性に標的を定め、顔を近づけて「荷物を前に抱えたら他人にあたって迷惑だと思いませんか」などと絡み始めた。私は珍しい生物を見つけたと顔がほころぶのを抑えきれないほどだったが、若い女性にとっては苦痛だろうと思い、無理やり二人の間に割り込んで、そのオヤジに背を向けて立ってやると静かになった。次の駅でそのオヤジが降りると、女性から礼を言われると同時に、近くの若者から「オジさんナイスでした」と親指を立てられた。

「俺、オジさんかよ」と思ったが仕方があるまい。それどころか、1ヶ月ほど前には、やっと言葉を話し始めた感じの幼児が私を指して「じいじ、じいじ」と言い、その母親と思われる女性が「こらっ、違うの、じいじじゃないのっ」と叱りながら赤面で私に平謝りであった。それにくらべれば「オジさん」というのは実は気をつかっていたのかもしれん。

今朝方、昨夜のオヤジがなぜか厚木の交番の警察官になっている夢を見た。いかにも夢らしいどうでも良い事象だ。

オチのない音楽

この週末、何度か町で夏祭りに出くわした。町内の人たちが仮装をして神輿を担ぎ、その後ろを女性や子供が笛や太鼓を叩いて歩いていた。これまでに何度も見てきた光景だが、あらためて意識してみると、面白いことに気が付いた。それは笛の旋律だ。西洋の音楽なら、導入部があって途中で繰り返しの盛り上がりがあり、最後にいかにも曲の終わりという感じの旋律に落ち着くというストーリーがあるのだが、この祭りの笛の旋律は、なんだか常にランダム、デタラメという感じでしかもストーリーもオチもない。だからとても落ち着かない。しかし、これは西洋音楽の影響を受ける前の日本人本来の音楽が、庶民によって伝承されて現代まで生き残っているのだろうと思い、音楽ではなくてそのことに少し感動を覚えた。

もし私に音楽理論の知識があれば、この笛のコード進行はどうだとか楽しい話ができるのだろうが、それができないのが残念だ。意外と「祭りの笛も明治維新後に西洋から入ってきたものだった」などというのが真相だとがっかりするのだが、まあそんなこともないだろう。西洋にはあんなヒョロヒョロとした根無し草のような旋律はないはずだ。それにしても落ち着かない。楽しいとも悲しいともなんの感情も喚起しないピーピーピーという笛の音だが、昔の人たちは何か感じたのだろうかと思うと不思議な気持ちになる。

日経新聞

今朝の日経新聞1面に『ようこそ卓球地獄へ』の宣伝がデカデカと載っている。

日経新聞を読むビジネスマンのいったいどれだけの人の目にとまるだろうか。目にとまったとして興味をもってもらえるだろうか。疑問、興味は尽きない。卓球王国、攻めまくってるなあ。

両隣の本とのタイトルのギャップが笑いを誘う。

本屋を調査

そろそろ『ようこそ卓球地獄へ』が本屋に並ぶ頃なので、仙台駅前の大きな本屋を見てきた。

丸善に行ってみると、なんと面陳(表紙が見えるように立てて陳列)で4冊が重ねてあった。その他に棚差しが1冊あったので、合計5冊が置いてあることになる。卓球王国からは事前に「仙台の丸善から5冊注文があった」と聞いていたので、これはつまりまだ1冊も売れていないということだ。

次に、ジュンク堂に行ってみると、1冊だけ棚差しで置いてあるだけだった。けしからんなあジュンク堂。さっそく面陳してある他の本の上に移動してやった。

さらに、ジュンク堂の別店舗に行ってみると、面陳で3冊が重ねてあり、他に棚差しも1冊あった。なんだジュンク堂、いいところあるじゃないか。

それにしても、これだけ本屋で堂々と置かれるとは思わなかった。少なくとも本屋はかなり押してくれているということになる。これではもはや「目立たないから売れなかった」という言い訳はできなくなったというわけだ。

3時間後に再度丸善に行ってみると、まだ5冊置いてあった。うむむ。頑張るのだぞ我が子たちよ。

作業者の話

職場で面白いことがあった。

ある建物の天井の蛍光灯が切れたのだが、そこは大きな機械が置いてある部屋なので天井が高く、とても素人ではランプの交換ができない。そこで、担当者が社外の専門業者に電話で連絡をして、交換に来てもらうことになった。

ところがその予定日は大雨が予想されていたため、その業者は、前の晩から作業者を建物に泊めさせて欲しいと言ったという。当然こちらの担当者は「そういう例はないし、そんなことはできません」と答えた。業者はなおも食い下がり、ちゃんと囲いを作って安全性も確保するのでぜひ泊めさせて欲しいと言う。「いえ、とにかくそんなことは絶対に認められませんから朝来てください」とこちらも譲らない。「そんなところに泊めたら作業者が可哀想でしょう」「いえ、可哀想じゃありませんよ」「あなた、どうしてそんなことがわかるんですか。本人の身にもなってください」

などという多少険悪なやりとりがあった後、判明したのは、業者が言っているのは「作業者を泊めさせて欲しい」ということではなく「作業車を停めさせて欲しい」ということなのであった。

久しぶりに大笑いした。そりゃ可哀想じゃないよなあ。こちらも先方もお互いに「何を頭のオカしいこと言っているんだ」と思っていたのだろう。そこが可笑しい。