東京パラリンピック卓球競技で、日本勢としては2000年シドニー大会以来となるメダルを獲得した伊藤槙紀。女子クラス11(知的障がい)において、20年以上にわたって日本の第一人者として活躍を続けてきた伊藤は、36歳にしてその努力が報われる銅メダルを手にした。
伊藤が卓球を始めたのは、中学1年時から。入学したのは、鎌倉市立深沢中で、ごく一般的な中学校の部活動で卓球を選んだ。その時の卓球部の顧問は、1年生の女子全員のバック面に粒高ラバーを貼らせたという。以来、伊藤はずっとシェーク裏・粒の異質スタイルだ。極端に浅い握りは独特で、バック面でフォアミドルくらいまでカバーする。後に、何度か一般的な握りに変えてみたこともあったが、プレーが崩れて、すぐに戻したという。
深沢中は普通クラスのみだったため、授業にはなかなかついていけず、ノートだけ黙々と取り続けていた伊藤。学校生活での最大の楽しみは、お昼のお弁当とともに、卓球部での活動だった。
ちょうどその時期、知的障がい者卓球連盟が立ち上がり、パラリンピックを目指す競技性の高い大会がスタートした。それが1998年に開催された第1回FIDチャンピオンシップ大会。学校からその大会の情報を聞いた伊藤は、「せっかくなので参加しよう」という軽い気持ちで出場したところ、4位に入賞した。まだ卓球を始めて1年ほどの頃だった。男女上位6名は7月のアジア大会への出場権を得られる。いきなりの話に驚いたもの、香港での大会に出場したところ、粒高が効いて準優勝となった。こうして本人も両親も驚くような展開で、伊藤は中学2年にして国際大会デビュー。以来、年2回の全国大会と、年に数回の国際大会への出場が24年間も続いている。
国内では常に第一人者であり、世界ランキングも長年6~8位近辺を維持し続けてきた伊藤だが、パラリンピックへの出場については不運な道のりが続いた。2000年シドニーパラリンピック時から出場を目指せる位置にいた伊藤だが、99年アジア選手権には年齢制限があるという誤情報によって、出場を見送ってしまった。またシドニーパラのバスケットボールの知的障がいで優勝したスペインのメンバー12名中10名が健常者だったことが内部告発によって明るみに出た事件をきっかけに、04年アテネでは出場枠がわずか4に、08年北京では実施種目から外され、12年ロンドンでも出場枠は6。「『なんで卓球もダメなの?』と本人は感じていたと思います」と、母の享子(きょうこ)さんは語る。
ただ、伊藤が腐るようなことは決してなかった。鎌倉養護学校高等部時代には、日産ジュニア卓球スクールに週3回通い、休日には健常者の試合にも出場したり、横浜市内の公共施設に出向いて練習もした。見知らぬ人と打ってもらう中で、コミュニケーションが必要となる。伊藤は卓球を通じて言葉数も増え、いろんな世代の人と笑顔で話を楽しめるように成長していった。卒業後は東信電気に7年半在籍。その時期、08年北京五輪の試合の模様がテレビ放映され、伊藤は釘付けになった。「いつもの大会と違う、すごいね」。平野早矢香、福原愛、福岡春菜の女子3選手のファンになった。福原や福岡の異質速攻に親近感を覚えた部分もあっただろう。パラリンピックも五輪と同じような舞台と知って、伊藤の中でパラリンピックがより具体的な目標になっていった。
12年ロンドンパラの後から、ネットで簡単に世界ランキングのポイントが調べられるようになったことから、13年からリオパラに向けて国際大会への出場が増えた伊藤。世界ランキング上位を維持し続けた結果、リオパラには、32歳にして念願の初出場を果たす。結果は2敗で予選リーグ突破はならなかったが、会場や選手村の様子に興奮し、特別な舞台を存分に味わった。
それから5年、東京パラには推薦枠での出場。奇しくも、予選リーグではリオで敗れた呉玫薈(香港)、ウイシャク(ポーランド)と再戦となり、呉には1-3で競り負けたものの、ウイシャクにはストレートでの勝利。予選リーグでは1勝2敗が3名で並び、ゲーム率計算で2位通過、これでメダルを確定させた。幸運と言えばそれまでだが、苦手としていた相手への3-0での勝利が効いた。大会前に小野千代コーチとともに強化してきたサービスとフォア強打が活きた結果であり、24年間の努力の成果だ。
19年から伊藤の指導を続け、東京パラでもベンチに入った小野コーチ。「初めはフォアはなかなか入らなかった。バック粒高主戦で有利な展開を作れるけど、高く浮いたボールくらいは叩けないといけない、ということで、フォアスマッシュに取り組みました。最初のうちはクロスにしか打てなかったのが、時間はかかったけど、次第にストレートにも打てるようになってきた。
伊藤さんは堂々としたタイプですが、初戦だけは緊張したようです。でも2度目の出場で場馴れもあったのか、その後はとても落ち着いていましたね。試合では、サービスの強化はもう少し出せればという反省点はあるけど、フォアの強化の成果はあったと思います。1勝2敗でも2位通過したというのは幸運とも言えるけど、同じリーグには苦手とする選手ばかり集まったし、リオパラや直前のスペインオープンでも負けていたウイシャクに3-0で勝ったからこその結果。20年以上やってきたご褒美かなと思います。日頃から様々な形でサポートしていただいている方々に感謝します」(小野コーチ)
東京パラのクラス11には、日本から男女計5名の代表が参加した。クラス11の代表クラスは、障がいの程度が軽い選手がほとんどだが、伊藤の障がいは比較的重い部類だ。それでも長年の継続が、すばらしい結果をもたらした。「東京パラが多くの方の目に触れた中で、パラ卓球は現状のクラス分けで適正なのか、クラス11でもさらに区分を作るべきなのか、などの様々な議論をネットで目にしました。これはパラ卓球のどのクラスにも共通する課題でしょう。まずは皆さんに広くパラ卓球を知ってもらうことがスタート地点になると思います」と話す享子さん。伊藤のメダル獲得は、パラ卓球の認知という点でも、ひとつの成果をもたらしたと言える。
記者会見では「こういう大会がまたあったら金メダルを獲りたい」とコメントした伊藤。テレビで観ていた享子さんは、次のパリ大会のことはまだ考えていなかったため、驚かされたという。「でも、本人は24年以上ずっと卓球が生活の一部になっていて、引退という発想自体が全くないんだと思います。卓球は生涯スポーツだし、この先もずっと卓球を続けていくんでしょうね。もちろんそれで良いと思います」(享子さん)。
もうじき卓球を始めてから四半世紀となる伊藤。メダルは長年の努力からすれば、ご褒美に過ぎない。大好きな卓球を、これまでどおり変わらず、ずっと続けていくことだろう。
※ PEOPLE 伊藤槙紀 は「卓球王国2021年12月号」でも掲載しています。
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