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インタビュー

コーチに雑誌編集、協会理事にゆるキャラまで。すべては惚れ込んだ大阪で、卓球人の笑顔のために

 「もう人生の半分は関西ですね」。生まれ育った青森を離れ、小寺敬太が京都に移り住んだのは18歳の時。それから37歳になった現在まで京都、大阪で過ごしてきた。東北とは文化の異なる関西での暮らしにもすっかり馴染み、本人曰く「津軽弁を標準語に近づけようとしたらこうなった」そうだが、口調もどこか関西ナイズされている。

 本職は大阪・難波の「HPC西ナンバ卓球センター」のコーチでありながら、編集長として『関西卓球情報誌TAMA』を刊行し、さらに大阪卓球協会の理事も務める小寺。その他にも卓球を通して様々な活動に取り組む。一度は卓球と距離を置いた時期もあったが、再び卓球に魅せられて人生が大きく変わった。「大好き」だと惚れ込んだ大阪の街で、卓球人の笑顔のために奔走する小寺敬太の生き方に迫る。

〈文・浅野敬純〉

 

●「師匠」と出会ってプロコーチの道へ

 小寺敬太が卓球を始めたのは7歳の時。青森で多くの選手を育ててきた今春雄が指導するASJで腕を磨いた。全中には3年連続で出場し、高校は県外の強豪校への進学も考えていたが、同い年で小学生の頃から県内で切磋琢磨してきた田中満雄(元・駒澤大→シチズン時計)の誘いもあって地元の東奥学園高を選んだ。

 同じ青森には高校卓球界を席巻していた青森山田高がおり、全国大会出場は容易いことではなかった。それでも、高校2年の時に開催された2001年のインターハイは70回記念大会ということで出場枠が増え、東奥学園高は東北ブロック代表として学校対抗に初出場。学校対抗でベスト16まで勝ち上がり、田中とのダブルスでもベスト16に進出した。同級生の田中の他にも、一学年下には沼田勝(元・埼玉工業大→日鉄住金物流)などもおり、全国でも有数の実力校だった。

高校2年、インターハイ出場時。後列左から2人目が小寺

 

 高校卒業後は京都の立命館大へ進学すると、入学後すぐの関西学生新人ではシングルスで準優勝。高校まで全国での実績こそ少ないが、強豪揃いの青森で揉まれた実力を発揮し、関西学生リーグでは立命館大の5連覇に貢献。大学2年の秋季リーグでは殊勲賞も受賞した。だが、ある時期から徐々に卓球に対するモチベーションが落ちていき、大学3年の始めに退部。その後は路上での弾き語りに没頭したり、ヒッチハイクで旅に出るなど、持ち前の行動力で大学生活を謳歌していた。

 卓球とは距離を置き、大学卒業後は大手保険会社に就職。そんなサラリーマン生活の最中、大学時代の先輩に誘われて久しぶりに卓球をすることになった。実は先輩に会ったのも「保険の契約を取りたい」という理由だったが、久しぶりの卓球はやっぱり面白かった。その後は全日本社会人、クラブ選手権にも出場するなど卓球熱が再燃。保険会社での仕事にそこまでのやりがいを見出せなかった小寺は、中学校で卓球部の顧問をしているチームメイトの勧めもあって退職を決意。指導者を目指すことに決めた。

 当初は学校の教師として部活で卓球を教えるつもりだった小寺は、教員免許を取得するための勉強しながらコーチのアルバイトをしていたが、そんな中で「人生の師匠」と慕う人物に出会う。その師匠とは日本リーグの日本生命、松下電器でプレーし、全日本マスターズや全国レディースでも活躍する脇村利恵子。知人の紹介で脇村の練習相手を務めるようになり、小寺の人生は大きく動き出す。

 「脇村さんに『卓球教えるために学校の先生になるんやったら、プロコーチでええやない』って言われて、それもそうだと思って。そこから脇村さんの卓球場を任されて、コーチとして働くようになったんです。脇村さんと過ごす中で考えさせられることも多かったし、脇村さんに出会ってなかったらそのまま教員になってたと思います」

脇村の率いるHPCは2016年の全国レディースで7連覇を達成。前列左から5人目が脇村、前列左端が小寺

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