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くまだ・ともゆき
1981年1月7日生まれ、広島県出身。全日本選手権ホープス・カブ・バンビの3種目で優勝。東山高時代にインターハイ男子ダブルス優勝、同志社大に進み、大学3年の時に全日本選手権でランク(ベスト16)入り。卒業後、日産自動車に7年間在籍し、その後、妻の実家の沖縄に移住。琉球レオフォルテJrの監督を務める。「知念あさひ保育園」副園長
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卓球王国最新号の「ピープル」で紹介した熊田智幸。掲載後に広島では「あの智幸も沖縄で頑張っとるけぇね」「智幸〜、こんなの読むと涙出るね」というメールが飛び交った。広島の卓球人にとって「熊田智幸」は今でも「スター選手・熊田」なのだ。
卓球は広島の「ベアクラブ」で父に教わった。全日本選手権のホープス・カブ・バンビの3種目で優勝。その後、東山高、同志社大、日産自動車と進んだ。東山高校でインターハイのダブルスのチャンピオンになり、大学時代には全日本選手権でランク入りを果たした。卒業後は、名門・日産自動車の卓球部に在籍。熊田智幸は卓球選手としてのエリートコースを歩んでいた。
日産自動車の卓球部に在籍したが、社会人になってからは思うような成績を出せずに6年間の活動を終えた。その後、職場は「7年目の社員」として彼を迎え入れ、熊田は仕事を任せられた。当時の熊田には、卓球選手だった妻・紫香(旧姓・松村)と二人の娘がいた。
日産7年目の熊田は朝8時半に出社し、帰宅が夜の12時を回ることもしばしばあった。熊田は当時をこう振り返る。
「なかなか仕事にはついていけなかった。帰りは夜の10時くらいが当たり前で夜中に帰ることもしばしばで、朝は子どもと顔も合わさないうちに会社に行き、帰ってきたら子どもは寝ている。土日はぐったりという日々が続き、これではまずいと思っていたし、卓球も全然やっていなかった。このままだと家庭崩壊になると思っていた。どうしようかとずっと考えていました。
嫁さんの実家が沖縄県南城市で保育園を経営していたので『沖縄に来るか』という話があって、それまで沖縄の実家には一度くらいしか行ったことはなかった。嫁さんの実家は『ぜひ来てくれ』というほどでもなかったけど、ぼくの状況を見ていて助けてくれた感じです」
熊田は心身ともに疲れて、日産自動車を退職し、沖縄に移った。
「日産にいる時は常に勝たなければいけないし、年功序列的な状況もあったし、試合に出るチャンスもないから、神奈川県予選もなかなか通らない状態でした。そうしているうちに卓球への情熱も冷めて、卓球が嫌で嫌でやめた感じでした。卓球への火は消えていましたね。
沖縄に行く時には卓球の用具を持って行かなかった。沖縄は横のつながりが強くて、移住しても馴染めない人も多いと聞きます。ただ、ぼくの場合は保育園という仕事なので地域の人と密に接するのでそれが良かった。でも知らない土地だったし、つながりを持とうと思うとやっぱり卓球だったんですよ。県民大会に出たりとか、国体出てくれと言われて、そのうち日本リーグにも出たりしてました。2年前にも人がいないから出てくれと言われて出たけど、恥ずかしかった。もう弱いですから(笑)」。
移住した当初は沖縄の文化や「沖縄タイム」とも言われる独特の時間感覚に戸惑うこともあった。しかし、知らない土地で、地元の人とつながろうとした時に、一度はやめた卓球が役に立った。指導がメインだったが、熊田はそうして再び、ラケットを握ることになり、11年が経った。
「陸続きならどこでも行けるけど、沖縄は簡単には外には行けないし、行くのもお金がかかる。文化もすべて違う。沖縄に行ってしばらくして、冠婚葬祭でカルチャーショックを受けたんですよ。結婚式に400人くらい集まってきて、知り合いの人が大勢集まって、昼から夜まで、式が始まる前に宴会が始まる。式場にはステージがあって、余興で踊ったり歌ったりでびっくりしました。全然知らない人も出席している。あれは何回行っても慣れないですね」と言いながら、熊田は笑う。
今では週2回、琉球レオフォルテJrの監督として2時間ほどチームを指導して、他の日は次女の陽花を指導する日々。「県予選をやると行っても、石垣とか宮古とか島の人は飛行機に乗って予選会に出てくる。その分、ハングリー精神がある。前泊もしなければいけないですから」(熊田)。
九州大会のときも飛行機での前乗りなので、費用もかさむ。また、強い中学生は、勧誘され、県外に出てしまうために強化が難しい面もある。考えればハンディになるようなことは多いが、熊田は沖縄の良さを最近感じるようになった。「良い意味で沖縄の人は卓球を楽しんでいるし、ガツガツしていない」。
「自分が現役時代に、全国大会で沖縄の選手と対戦すると『ラッキー』と思っていたが、いざ自分が沖縄に住んだら、そう思われるのは嫌ですね。そう思われないくらいに強い子を育てて、『沖縄の子と当たったらやばいぞ』と思わせたい。そして、九州とか全国で活躍できる子どもたちを育てたい」と熊田は語った。
一度は嫌になり、完全にやめた卓球に、沖縄という地で再び引き寄せられた男。熊田智幸の夢はデカくはないが、「まあまあ」大きい。沖縄に住んで11年。彼は昔よりも卓球が好きになっている自分に気づき始めている。
(文中敬称略)
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