卓球王国 2021年10月21日 発売 vol.295
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インタビュー

卓球の楽しさを伝え、勝利をイメージさせる。竹本泰彦

「ヒゴ鏡」の名は、肥後国(熊本県)八代市鏡町から。地元に根ざした手作りのチーム「ヒゴ鏡卓球クラブ」が、2021年全国ホープスで初優勝を果たした(関連記事)。代表・竹本泰彦の指導の根幹には、彼が出会った様々な卓球人からの影響がある。

 

91年1月に地元熊本の寿屋(ラララ)に就職。日本リーグで活躍することになる竹本にとって、同年5月に来日し、チームメイトとなったソウル五輪複金メダリスト・韋晴光(ウェイ・チングァン)、後の偉関晴光(いせき・せいこう)の存在は、計り知れないほど大きいものだった。

偉関さんについて? 話し出したら1日かかりますよ(笑)。もちろん、それ以上ない強さの人で、技術面で学ぶ点ばかりでした。でも努力も凄かった。ぼくら下っぱと一緒に朝のランニングや休日の練習もしていた。試合への準備も徹底していました。次の試合でカットと当たるとわかったら、カットマンと練習をやり込んだし、ペン表と当たるとなると多球練習で表のスマッシュを受けたり。戦術面も徹底していて、相手の戦型ごとに明確な戦術パターンを持っていた。晴光さんは左ペン、私は右ペンだったので、左右逆にして当てはめて、戦術面で勉強させてもらいました。

偉関さんは苦労人だったからなんでしょうね。当時は他の実業団チームにも中国選手がいましたが、みんなそこまで全力でやっていなくても、それなりに勝てていた。でも偉関さんは常に全力で努力を続けていた。卓球選手としてすべての面で模範で、それは今の私の指導にも繋がっています。

また感銘を受けたのは人柄です。偉関さんとはダブルスを組んで、全日本社会人で準優勝、全日本で3位と、日本のトップの場を経験させてもらいました。私のミスが多かったのですが、私がミスした時に偉関さんが謝るんです。ある時、その真意をたずねたところ、「その前にボクが決めていないといけないボールだった」と。五輪金メダリストなのに、相手を気遣うその人柄は本当に偉大だと思いました。それで私も「偉関さんに迷惑をかけられない」と、より練習に気合が入りました。今でも子どもたちには、相手への気遣いや感謝の気持ちを常に忘れないようにと伝えています。

また偉関さんは、毎日練習の最初の1時間で多球練習をやっていたんです。奥さんの絹子さんが球出ししてたんですが、すごくハードでしたね。寿屋の先輩選手たちはやるのを嫌がっていました。晴光さんは「みんな逃げるもんね(笑)」って言ってましたね。でも強くなるための練習に飢えていた私は、喜んで多球練習をやらせてもらったんです。五輪金メダリストとまったく同じメニューを毎日やったんですよ。今でもメニューは覚えていますね。この練習のおかげで、かなりレベルアップしました。
絹子さんには、現役時代の球出しだけでなく、引退後に中国に帯同してもらい、現地の練習と指導を勉強させてもらい、本当に感謝しています。選手として、指導者として、偉関夫婦から学んだことは数えたらキリがありません」。

 

竹本は99年に引退後、NEC九州(後のルネサスSKY/当時日本リーグ女子参戦)のコーチを5年間務める。その頃、自分の娘に卓球を教え始めたことに加え、02年に公認コーチの資格を取得したこともあり、卓球場を作って指導者になる夢が膨らんでいった。こうして05年に、ヒゴ鏡卓球場が産声を上げた。

い草農家だった実家の倉庫の2階に、マットを敷いて卓球台を3台並べ、娘や地域の子どもたちの指導を始めました。じきに生徒が増え、1年半後に卓球場を建てることを決意しました。結構、借金をしたし、親戚には『卓球で飯が食えるはずがない』と反対されました(笑)。でも一度やろうと思ったら、マイナスのイメージはなかったんです。

私は、何事でも全部プラスにできると考えているんです。もちろん、良いことばかり起こるわけではありません。たとえば今から3年前に父が肺癌で他界したんですが、その時はもちろん悲しみに打ちひしがれました。でも、これは親類一同に向けて「タバコはダメだ、健康的な生活をしよう」というメッセージだと考えるようにしたんです。考え方次第でプラス志向になるという考えは、指導でも大切にしています。

また、指導のベースにあるのは、「卓球の楽しさを知ってほしい」という点ですね。私は中学2年で卓球に出合ったんですが、今でも当時のボールを打った時の何とも言えない感覚をはっきりと覚えています。ラバーの『タキネス』の臭いまで覚えていますね(笑)。卓球がただひたすら楽しくて、のめり込んでいった。まずはこの感覚を子どもたちに伝えたい。楽しさからスタートして、卓球が好きになっていないと、強くなれないし、長続きしないと思うんです。たとえば全国ホープス優勝メンバーの深山稟心(りこ)は卓球がすごく好きで、親も私もビックリするくらい卓球にのめり込んでいった。卓球の動画を見るのが大好きというくらい熱心だからこそ、強くなっていったんだと思います。

全国ホープス決勝1番で先制点を挙げた深山稟心

本郷蒼空(左)と山田あかりのダブルス

 

卓球場がスタートして今年(2021年)で17年目、全国ホープスでは2位と3位が2回ずつだったチームは、悲願の初優勝を果たした。この優勝は、6年前から狙っていたものだった。

今年優勝したメンバーの3人(深山、本郷、山田)は、幼稚園の年長の時に同時期にクラブに入ってきた。なかなか同学年で3人、早くから始めるということはないので、最初から『日本一を目指そう』と言っていました。もちろん最初は本人たちも親もピンと来ていなかったと思いますが、皆一所懸命でした。深山が3年の時に、日本卓球協会のパスウェイ事業の中央合宿で、全国上位の成績を挙げた。また本郷や山田も力をつけて、この頃から具体的に全国を狙えるという手応えを感じました。本郷には、「深山ができるんだから、絶対できるはずだよ」と声をかけ、本人もやる気を出した。山田にはダブルスを絶対取るということを伝えていましたが、覚える技術の多いカットマンながら実力はぐんぐん伸びて、全国ホープスの決勝では相手のエースに勝った。相手も強いしラストまでもつれると思っていて、本郷に「ラストで勝って卓球王国に大きく載るんだぞ」と言っていたんです。3-0で勝てたのは嬉しい誤算でした(笑)。でも、3人にそれぞれの役割を明確にイメージさせていた。長年、3人には卓球ノートに「日本一になる」と書かせたし、『表彰台の一番高いところに上るんだよ』と言葉がけを繰り返してきた。常にポジティブなイメージを持つことを徹底してきたのが、優勝の大きな力になったと思っています。

左から山田、深山、本郷(写真提供:竹本泰彦)

偉関さん他、選手や指導者から受けた影響はものすごく大きい。たとえば渡辺武弘さん(91年全日本優勝)からは、『中学生時代に卓球ノートに毎日“日本一になる”と書いた』と講義で聞き、意識付けの重要さを学びました。それで、優勝した3人にもそのように書かせたんです。また平岡義博さんには講習会で熊本に来ていただき、体の効率的な使い方などを勉強させていただいた。優勝メンバーの3人がクラブに入ったばかりの頃に、平岡さんに初期設定をしてもらえたのは、本当に貴重なことでした。

そして、熊本から全国優勝を果たしている『城山ひのくにジュニア』の松下雄二さんの影響も大きい。城山では週50時間近く練習していたと聞きましたが、「そこまでやるんだ」というその熱量には触発されましたし、松下さんの指導からは強くなるためのヒントをもらいました。一方で、私は卓球だけでなく勉強や睡眠も大事だと思っているので、平日は3時間練習で、火曜は休み。ケガをしてほしくないので、30分はウォーミングアップに費やしています。また宿題や片付けができていないうちは練習をさせません。卓球選手が終わった後のほうが人生は長いですから。目標は日本一ですが、卓球を通じて人間形成が大切だと思っています。これまでは2位や3位ばかりだったので、「もっと練習時間を増やさないと優勝できないのか」と迷ったこともありました。試行錯誤しながら指導していますが、今回の優勝で、やり方はそんなに間違っていなかったかなと、自信になりました。

 

竹本の指導の道において、もちろん今回の優勝は通過点に過ぎない。今後について聞いてみた。

もちろん下の年代の子もいます。昨年はコロナの影響で新しく入って来たメンバーはゼロでしたが、今は東京五輪効果で少しずつ入ってくるようになりました。次がいつになるか分かりませんが、また日本一を目指します。一方で、卓球の普及もしたい。「卓球がこんなに素晴らしいスポーツなんだ」ということを多くの人に知ってもらいたい。昨年、熊本県内で豪雨災害が酷かった地域などで、ボランティアで卓球を教える予定です。以前から普及のことは考えていましたが、全国ホープスで優勝したり、東京五輪で日本勢が活躍した今は、良いタイミングです。卓球で食べさせてもらっている私としては、卓球で日本一を目標にし、それを通じて子どもたちの人間形成の役にたちたいということ。それに加えて地元での卓球の普及が、使命なんだと思っています。

 

広く卓球の楽しさを伝えていく。そしてクラブでは楽しさをベースに勝利を目指す。卓球を愛してやまない竹本の、真心のこもった指導は、これからも続いていく。
(文中敬称略)

 

※ PEOPLE 竹本泰彦 は「卓球王国2021年11月号」でも掲載しています。

 

竹本泰彦 たけもと・やすひこ
1969年11月11日生まれ、熊本県八代市出身。熊本工業高を卒業し、91年に寿屋(ラララ)に入社、日本リーグで活躍する。94年全日本社会人複準優勝、97年全日本複3位。99年に引退、NEC九州のコーチを経て2005年に「ヒゴ鏡卓球場」をスタートし、地元の子どもなどを指導。21年全国ホープスで女子が初優勝を遂げた