卓球王国 2021年7月20日 発売 vol.292
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オフチャロフ「ぼく自身の才能というのは 高い集中力で練習をできることだ」

<卓球王国2015年2月号より>

[欧州の至宝]

ディミトリ・オフチャロフ

[ドイツ]

 

ジュニア時代、その少年が世界のトップ5に入り、

五輪でメダルを獲るなどと誰が想像しただろうか。

器用でもなく、卓越したボールセンスを

持っているわけでもなかった。

ただ、練習に対するひたむきで

貪欲な姿勢が光っていた選手。

欧州の至宝、ディミトリー・オフチャロフ。

脇目もふらずに世界の頂点へ走り続ける

トップランナーだ。

 

インタビュー=今野昇

写真=今野昇&アン・ソンホ

 

ほかの選手にはいろいろな才能があると思うけど、

ぼく自身の才能というのは

高い集中力で練習をできることだ

 

 

五輪出場が決まるまでの半年間は

多くの強い選手に勝てたし、

燃えていたんだ。

今考えても、

ものすごい力をつけたと思う

 

インタビューは(2014年)10月末のワールドカップの前日に行った。インタビューの申し込みに対して、「大会前日の午前の練習が終わったら時間を取りましょう」と直接メールで返事をくれた。

試合会場の横の会見場を借りてインタビューは始まった。最新号を見つけると、「それ、もらっていいかな」と言ってきた。「卓球王国はもちろん知ってるよ。世界No.1の卓球雑誌だから」と持ち上げてくれた。

◇ ◇ ◇

●─まずはじめに、ディマ(オフチャロフのニックネーム)、きみの選手としてのバックグラウンドを教えてください。ウクライナ(当時は旧ソ連)生まれだね。

オフチャロフ(以下DO) そうです。キエフで生まれたけど、正確に言えば、そこには2、3カ月しかいなくて、父(ミカエル)がプロ卓球選手だったので、ポーランドに移った。父はポーランドの1部リーグでプレーしていて、ポーランドに2年半住んでいた。その後、1992年に3歳数カ月くらいの時に、父はブンデスリーガの2部リーグに移籍したので、家族は一緒にドイツに行くことになったんだ。

 

●─そうするとウクライナやポーランドでの記憶はないのかな。

DO ウクライナの記憶はないですね。ポーランドは、父が交通事故に遭い入院したので、病院を訪ねた記憶があるくらいかな。

 

●─ドイツに移り、卓球を始めたのはいつだろう。

DO 5歳の時。でも背が低かったから、最初はキッチンのテーブルで遊びで始めて、6歳の時には父が低い卓球台を特別に作ってくれた。20センチくらいは低かった。その台で7歳くらいまでやっていた。

父は大会に出さないで、まず技術を教えてくれた。ぼくが最初に大会に出たのは9歳の時です。

 

●─少年時代のスポーツ経験というのは何だろう。やっぱりサッカーとか……。

DO 父が危ないからとあまりサッカーはやらせなかった(笑)。やったことはあるけど、それほどたくさんはしていない。夏になるとテニスをやったり、たまにゴルフもやった。スポーツではないかもしれないけど、あとはビリヤードやダーツだね。

父はぼくを卓球選手にしたかったんだと思う。ボルシア・デュッセルドルフに入る前、小さなクラブだったけど4部リーグからスタートして、フィルスというカットマンとぼくと父で1部リーグに上げたんだ。そして17歳の時にボルシア・デュッセルドルフに移った。小さい頃から今まで、父はぼくのコーチだし、卓球については今でもいろいろ話をしますよ。

 

●─お父さんはきみのすべてを知り尽くしているんだね。技術もメンタルも。

DO そのとおりです。

 

●─きみは16、17歳頃から急激に力をつけていったね。

DO ぼくは2008年の北京五輪に向けて、とても大きなモチベーションを持っていたんだ。周りの人はこう言っていた。「まだきみには早すぎるよ。少し待ったほうがいい」とね。あの頃は、まだロスコフ(現ドイツ監督)もいたし、ズースも強かった。3番手として選ばれるのは難しかったから、世界ランキングで2番手として選ばれる必要があった。それはぼく自身にとって大きな挑戦だった。

北京五輪前の06年から07年にかけて、ぼくは80位くらいだった世界ランキングを20位以内まで上げたんだ。大きな飛躍だった。国際大会にも多く出場し、五輪出場が決まるまでの半年間は多くの強い選手に勝てたし、燃えていたんだ。今考えても、ものすごい力をつけたと思う。

 

●─「五輪に出る」という目標はクリアだったわけだ。

DO 最初は大きな夢だったけどね。途中から目標になった。もちろん、ドイツチームは強かったし、出場すればメダルのチャンスがあるのはわかっていた。そして、実際に団体で銀メダルを獲ったことで夢が叶った。それがロンドン五輪でのシングルスのメダル獲得にもつながったし、ぼくの選手生活の中での大きなゴールであり、目標だったから、それを実現させたことはとても重要なことだ。

 

●─五輪というのは初出場の時に特別な雰囲気を感じると誰もが言う。ワルドナー、パーソン、セイブ、ガシアンというヨーロッパの歴史に残る選手たちに話を聞くとみんながそう言う。「あそこは特別な場所さ」と。

DO 2008年北京五輪は、先に団体戦を行い、グループリーグをやった。そこで良いスタートを切れたし、ほぼ完璧にプレーできた。いきなりシングルスのトーナメントだったら、大きな重圧がかかったと思うけど、団体戦でスタートしたのが良かった。団体戦の初戦はクロアチア戦のダブルスで、次はカナダ戦で勝った。ここでリラックスできたから、他の選手よりはプレッシャーが小さい中でうまくスタートを切れたんだ。だから大きな自信を持つことができた。

 

●─北京五輪での団体のメダル獲得の後に、何か自分自身が変わっていく部分があったのだろうか。

DO もちろん、すべてが変わった気がする。それまでドイツではぼくのことを知っている一般の人は少なかった。卓球と言えば、ティモ・ボルだった。彼は長年活躍している強い選手だし、ドイツ卓球は「ティモ・ボル・カンパニー(会社)」という感じだった。でも、北京でようやく一般の人はぼくの名前を覚え始めてくれた。

ぼく自身はそれまで団体での優勝はあってもシングルスのタイトルはなかったから、北京五輪がぼく自身のやる気をさらに高めてくれて、「五輪のシングルスのメダルを獲りたい」という思いが強くなった。もちろん、それは簡単なことではなかったけど、ぼく自身の大きなステップとして、またぼく自身の達成すべき目標となった。実際には09年、10年と安定した成績を残していたけど、シングルスのタイトルを獲れないでいた。