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1971年、ピンポン外交のセンターコートにいたのは荘則棟だった

<卓球王国2003年9月号より>

【ピンポン外交50周年】

荘則棟

中国

vol.3 Chuang Tsetung

1971年世界選手権名古屋大会での荘則棟。すでに全盛期のプレーではなかった

 

伝説のチャンピオン、波瀾万丈の人生を語る

[逆境が人を諫める。栄誉と恥辱に動じない]

 

 

圧倒的な力で世界選手権3連覇を成し遂げた荘則棟は、中国の文化大革命の波にのまれ、

国際舞台から忽然と姿を消した。そして再び登場したのは、1971年、

名古屋で開催された第31回世界卓球選手権大会。形勢不利と言われた男子団体では

中核としてチームを牽引し、見事優勝を成し遂げたものの、シングルスは棄権した。

しかし、この名古屋が「ピンポン外交」のセンターコートになり、

そこに立っていたのは誰あろう荘則棟だった。

 

インタビュー・写真 ● 今野 昇

通訳 ● 杜功楷

 

私は最後の

少しの力を振り絞って

団体戦を戦っていたのです。

もう力が残っていませんでした

 

1965年リュブリアナ大会でシングルス3連覇を達成した荘則棟はまさに選手としての絶頂期を迎えていた。しかし、中国の政治運動「文化大革命」のために67、69年の世界選手権に中国は参加しなかった。文化大革命の嵐が続いていたが、70年に、翌年名古屋で開催される第31回世界選手権大会の出場を決めた中国。荘則棟にとっても6年ぶりの世界選手権だったが、往年の技の切れは失っていた。

しかし、大会に入り、中国チームは梁戈亮、李景光という新人の活躍で、団体決勝で日本を5−2で破り、優勝を決めた。続くシングルスでは、荘則棟は2回戦のカンボジア選手との試合を政治的理由で棄権。スポーツと政治は切り離せない。特に中国ではそうだった。中国チームが掲げた「友好第一、試合第二」は裏返せば、「政治第一」の姿勢だった。

◇◇◇◇◇◇◇◇

それまで中国の卓球チームは2回(1967、1969年)の世界選手権を逃していたので、周恩来総理は1971年の第31回世界選手権大会(名古屋)に派遣したかったようです。当時、卓球チーム内では意見が真っ二つに分かれました。「2回も出ていないんだから今回もやめましょう。資本主義の国で大会をやっているのだから我々は行くべきでない」という意見と、「周総理が同意してくれたのだから世界選手権に行きましょう」という意見でした。

 

そうした時期に毛沢東主席から、「我々は多少犠牲が出ても行くべきだ」という指示が出ました。周総理は毛主席の指示に従って、ある言葉を贈ってくれました。それは「一不怖苦、二不怖死」(一に苦しみを怖れず、二に死をも怖れず)と、「友好第一、試合第二」という言葉でした。

また、日本の後藤鉀二先生(当時日本卓球協会会長)がわざわざ中国を訪れ、中国の出場のために尽力してもらいました。それは1970年のことです。周恩来総理は後藤先生と接見し、一緒に写真も撮りました。2回の大会に出ていなかった中国を再び国際舞台に引きあげてくれた人です。

 

70年末のヨーロッパ遠征で惨敗した中国男子チームは、71年の世界選手権名古屋大会において新人の梁戈亮(リョウ・カリョウ)を使うことでかなり意見が分かれました。

70年8月、周恩来総理が卓球チームと接見してくださった時に、「卓球チームには新人はいますか」と聞かれました。当時、李富栄、張燮林(チョウ・シリン)、林慧卿(リン・ケイキョウ)、鄭敏之(テイ・ビンシ)はそろって、「いません」と答えました。

私は実は迷っていました。言っていいものかどうか。もし言ったら、みんなに嫌われるだろう。でも言わなかったら総理に対して申し訳ないと感じていました。

みんなが「いません」と答えたあとに、総理は私のほうに目を向けました。「小荘(荘則棟)、あなたが言ってみなさい」と聞かれたので、私は「います」と言葉を返しました。「誰ですか」と聞かれ、「梁戈亮です」と答えました。当時、総理は梁戈亮を知らずに、「えっ?」という顔をしました。「どんな打法ですか?」と聞かれたので、私は説明を加え、「彼は結構良い選手です」と答えました。

 

帰りに、女子の林慧卿や鄭敏之に責められました。「荘則棟、なぜあなたは周総理の前で訳のわからないことを言うんですか。梁戈亮は国内の試合でも優勝したことがないのに、世界選手権に推薦したらどうなるんですか。そんな推薦ってある? 我々女子は絶対反対です。同意しません」と。

私が推薦した梁戈亮にみんなが大反対でした。その時「私、荘則棟はどのくらいのレベルなの?」とみんなに問いかけました。「世界的レベルです」「私に勝つ人が何人いますか?」「そんなにいません」「今、練習試合で梁戈亮と私がやると勝ったり負けたりなんですよ」というやりとりがありました。「梁戈亮が私に勝つ」と言った途端みんなが驚いた顔を見せました。

 

その頃、梁戈亮と試合をすると、私は彼の反転サービスに苦しめられていました。71年の世界選手権前の部内リーグ戦でも、最終的には私は周蘭孫と決勝をやりましたが、梁戈亮、許紹発、李景光の3人はとても強かったのです。

文化大革命の時、有名選手は練習できなかったのですが、若い無名選手たちは十分に練習できたのです。実際に、名古屋大会では梁戈亮、李景光が大活躍し、中国の団体優勝の立役者になりました。

 

名古屋に出発する前に周総理から「もしカンボジアのロンノル政権の選手と対戦したら棄権しなさい」という指示がありましたが、まさか自分が当たるとは思いませんでした。シングルス2回戦で私はカンボジアの選手と対戦した際に、指示通りに棄権しました。これは政治的な理由で仕方のないことです。カンボジアでクーデターが勃発し、前政権のシアヌーク殿下がロンノル政権に追い出され北京に逃れていました。中国は新政権を認めていなかったために、カンボジア新政府から派遣された選手との対戦を拒否したのです。

中国はいつでも政治が第一です。名古屋大会はまさに「友好第一、試合第二」で、その友好第一の意味は、実は政治が一番大切だということなのです。

しかし、もしカンボジア選手と対戦してなくても、たぶん私は世界選手権のシングルスでは上位までは上がれなかったでしょう。私は最後の少しの力を振り絞って団体戦を戦っていたのです。もう力が残っていませんでした。

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