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インタビュー

山崎雄樹「自分の言葉で卓球と 選手の魅力を伝えたい」

卓球アナウンサー

今では少々馴染みのある単語だが、一般的ではない。

そもそも卓球を放送すること自体が少なかっただけに、「卓球アナウンサー」は成り立たない。

それがTリーグの発足により、徐々に卓球を実況するアナウンサーが現れてきている。

今回は「卓球を実況するために上京してきた」という

山崎雄樹さん

にスポットを当ててみよう。

取材ー佐藤祐

 

 

–——まずはじめに、山崎さんが卓球を始めたキッカケを教えてください。

山崎:小さい頃からスポーツが好きで、何か本格的に始めたいと思っていたところ、卓球経験者の父から「家の近くに元日本代表の人がやっている卓球場があるぞ」と聞いて、行くことになりました。

それが西飯卓球道場(現西飯卓球センター)です。徳康さん(故人)は明るく、楽しく、破天荒な方でしたね。基本的に奥様の幸子先生が小学生の教室を教えていました。私は日本式ペン表ソフトの前陣速攻スタイル。西飯さんの次女の由香さんとは同い年だったので、同じラケット・ラバーを使ってお手本にしていました。

小学5年からスタートして、すぐに全国ホープスに出場できました。

夏になると冷房がないので、40℃を越えてましたが、練習は楽しかったですね。

卓球場が近づくと、外までボールを打つ音が聞こえて、「キュキュ」と床が擦れる音もした。心躍りました。

最初は週1回だったけど、どんどん回数を増やして、夏休みは毎日行っていました。

 

–——初めてすぐに全国大会に行くなんてすごいですね。

山崎:徳康先生が名古屋商科大学の監督をしていたので、大学生とも練習させてもらっていました。朝から練習して、午後から大学生と練習、夜は小学生教室に参加。今思うと結構やってましたね。

実家は自営業だったので、父の仕事場に卓球台を置き、マシンも購入して練習するほどでした。その練習場は、4つ下の妹に引き継がれました。

団体戦の全国ホープスでは5・6年生で、2年連続出場しました。6年の時は真田浩二さん(現・愛工大名電中監督)とダブルスを組んだんです。真田さんは当時、3年生で3歳差のコンビでしたが、結構相性は良かったんですよ。予選リーグでも全勝でした。

残念だったのは、シングルスで全国大会に行けなかったこと。5年の時は三重県予選で全国出場6人枠の中で7位、6年の時もベスト8止まり、中学の時も3人枠で4位になり、ギリギリでカデットにも出られませんでした。

ちなみに私の妹(裕子)は小学校の時から全国大会に出場し、インターハイ常連の白子高校出身です。妹の代から現在まで連続出場しているんですよ。

全国ホープスでの山崎(右)・真田のダブルス。この時は北海道のチームに負けてベスト16だった。「この時はまだ俺のほうが真田より強かったよ」と山崎

 

–——そこからどうしてアナウンサーを目指すようになったんですか?

山崎:小学6年の時に学校の児童会の選挙があったんです。各クラスひとりが会長に立候補しなくちゃならなくて、自分が出て演説をしました。その時のあだ名が「ユーキャン」だったんですが、「ユーキャンとは英語で『あなたはできる』という意味です。ぼくなら児童会会長ができます」と話したら、めちゃくちゃウケて、他の候補者の3倍くらい票が入って当選しました。

その時に「言葉っておもしろい」と感じて、母の薦めもあってアナウンサーという職業を意識するようになりました。

そこからはスポーツ中継を見ても、アナウンスばかりを気にするようになりました。漫画を見ても、キン肉マンとかキャプテン翼にはアナウンサーが出てましたから、スポーツ中継には必須の存在だと、認識しましたね。

中学までは全国大会を目指して一生懸命やっていましたが、高校からは進学校に進んだこともあって、ほとんど練習しなくなりました。全く練習せずに試合だけに出ることもありました。とんでもないですよね(笑)。

中学の時は県ベスト4程度の実力でしたが、高校に入るとベスト16になり、32になり、どんどん成績が落ちていきました。「勉強もやってるんだからしょうがないよ」と言い訳にしてましたね。

卓球の成績が落ちれば、勉強のせい。勉強の成績が落ちれば、卓球のせいにしてしまって、駄目になってしまったんです。

今思えば、高校の帰りに西飯卓球道場に寄って練習しておけば良かったなぁと。

もしかしたらインターハイに出られたかもしれないですね(笑)

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