「伊藤監督とメディアが書き出したのはありがたかったんです。私はそう書かれるのは平気だし、逆に良かったと思っている」
日本女子の渡辺武弘監督からは意外な言葉が発せられた。それは世界卓球から1週間経った頃のオンラインの取材の時だった。その前にLINEで釜山大会の総括コメントを聞きたいとメッセージを送ると、少し遅れて、「すいません。帰ってから忙しくて」と返ってきた。各方面への挨拶回りかなと思っていたら、「今大学の卓球部に来てボール拾いをしているんです」と追加のメッセージ。
中部大学は休職中のはず。のちのインタビューの時にこのことを触れると、「名古屋にいる時には時間があったら卓球部に顔を出すようにしているんです。卓球部には指導者もいないし、何かアドバイスできるかもしれないから」と言う。これが渡辺武弘なのだ。
2月26日に閉幕した世界卓球・釜山大会(団体)。上位8チームは五輪の団体戦の出場権を得ることができ、5カ月後のパリ五輪に向けて、各国の戦力を測る上で重要な大会であった。
日本女子は早田ひな(日本生命)・平野美宇(木下グループ)・張本美和(木下グループ)の五輪代表と、伊藤美誠(スターツ)・木原美悠(木下グループ)の5人の布陣。世界のトップランカーを揃えた最強の布陣で、王者中国を追い詰めた。
その中にいた伊藤美誠は1月の全日本卓球選手権でシングルス2枠の代表からもれ、3人目の団体戦メンバーにも選ばれず、「引退」の声も囁かれていた。全日本直後の2月の世界卓球も棄権するのではという憶測も流れたが、五輪代表の選考ポイント3番目の彼女は、全日本で負けた夜に「世界ランキング1位を狙う」という新たな目標を設定していた。そして釜山大会に行くことを決めていた。
日本女子の渡辺監督はあることを気にしていた。「自分は五輪のリザーブはやらない」という伊藤自身の発言などで、伊藤に対するネガティブな評判がSNSやニュースで流れていることを心配していた。しかも彼女が世界卓球で団体メンバーに入った時、東京五輪金メダリストのプライドもあるだろうから、試合に出ないで不貞腐れてしまうとチーム内でハレーションが起きてしまう。
何より、そういう世間の評判が本当の伊藤美誠とかけ離れていることを渡辺は知っていた。「彼女は話をしてみたら、悪い子ではないんです、誤解されていることが多い。明るく素直な子なんです」と渡辺は語った。
何より彼女は代表になれなかったとは言え、東京五輪の金メダリストなのだ。釜山大会の前に伊藤と話をした渡辺は彼女にこう聞かれた。「今回、釜山で私はどうすればいいんですか?」と。強化本部の中では5カ月後に控える五輪のために、今回の団体戦はすべて五輪代表の3人で戦うべきだという声もあがっていた。渡辺は正直に伊藤に伝えた。「選考ポイントの3番目で世界卓球に選ばれている。だから伊藤には出てもらう。でも世界ランキングをポイントを稼ぎたいので、早田、平野は全部出したい。3番目は張本も出すし、伊藤にも出てもらう」と。
明るい返事が伊藤から返ってきたので、渡辺は理解してもらったと思ったが、実際にはどうなるかわからないという思いもあった。
大会が始まり、伊藤の出番はグループリーグと準々決勝で2回あった。ところが前半戦での日本の戦いぶりとベンチの様子を見て、ネットでは「立ち上がって応援しない伊藤美誠は生意気」と、彼女に対する誹謗中傷もあった。またしても伊藤に対するネガティブな空気が流れる。
実際のベンチでは不協和音は全くなく、座って応援しているのは伊藤の冷静な試合分析のためだった。
日本選手のベンチでは渡辺監督を差し置いて、伊藤がまるで監督のように身振り手振りで選手たちにアドバイスを送るシーンもテレビで流された。しかし、これは彼女の突発的な行動ではない。「ベンチでのアドバイスは彼女だけではなく、ぼくだけの知識だけでは難しいのだから、みんなでアドバイスしてほしいと伝えていた」と渡辺は語る。
渡辺武弘は全中チャンピオン、インターハイ三冠王、そして全日本チャンピオン、五輪2回出場、世界選手権6回出場の輝かしいキャリアを持っていながら、その後、母体の協和発酵(現協和キリン)の監督を務めた後に、卓球界から離れ、酒類関係の営業職を経て、中部大学の准教授として教員になり、卓球界に戻ってきた苦労人だ。
ネットニュースやテレビで「伊藤監督」と言われたことに渡辺自身が傷つきはしなかったのだろうか。「伊藤監督とメディアが書き出したのはありがたかったんです。私はそう書かれるのは平気だし、逆に良かったと思っている。逆に日本の指導者があれを見て、『渡辺、セオリーと違うぞ、選手にアドバイスさせて何だ』と思っているかもしれない。結果が悪かったら、ぼくがボロクソに言われたと思います」と振り返った。
渡辺が気にしたのはそんな世間や卓球関係者の評判や批判ではなく、「いかに選手が気持ちよくプレーして、良い結果を出すのか」だけだった。
伊藤美誠自身も「伊藤監督」と書かれていることを気にしていた。
「渡辺監督がいたから私がアドバイスできたんです。監督としてアドバイスをしているのでなくて、選手目線で、自分がコートに立ったらどうするんだという目線で私はアドバイスをしました。私が監督と言われるのは、渡辺さんに失礼です。大会が始まる前から渡辺さんはむしろベンチでたくさん話しをしてね、どんどんアドバイスをしてねと言ってくれました。選手がアドバイスすることを嫌がる監督もいるし、自分が自分がと言う人もいるけど、渡辺さんがいたからこそチームが良い雰囲気になった」(卓球王国3月21日発売号のインタビューより)と伊藤は大会後のインタビューで語っている。
代表監督というのは、監督としての自分の色を出そうとしたり、周りの目を気にして、「監督としてやっているぞ」感を出そうとする人もいる。
選手としての実績があっても、自分が長く卓球界から離れていて、今の選手たちの経験や母体のバックアップ体制を渡辺は信じていた。だからこそ自分の役割は前面に出ていくのではなく、一歩引きながらも選手たちを気持ちよくプレーに集中させることだった。
今回中国との激戦で世界に日本の強さをアピールした。渡辺はこう続けた。「毎回母体チームは選手に寄り添ってコンディションニングを調整している。木下グループの中澤さん、張さん、『チームヒナ』の石田さん、岡さんという現場で毎日やっている方たちの素晴らしいサポートがあった。監督として私が露出していますが、本当に取り上げてほしいのはこういう後ろにいる方たちです」
あくまでも謙虚で選手やスタッフへの思いやりと敬意を決して忘れない、それが日本女子監督の渡辺武弘という男だ。
冒頭で「伊藤監督とメディアが書き出したのはありがたかった。逆に良かったと思っている」という渡辺の言葉は、日本に貢献してきた伊藤美誠のネガティブなイメージを払拭させたいという彼の優しさだった。しかし、一方でもうひとつの優しさを言葉にした。「伊藤がクローズアップされすぎているけど、実際に中国との決勝ですごかったのは早田であり、平野であり、張本なんです。そして木原を含めて全員が素晴らしい選手で、素晴らしいチームなんです。そこを理解してほしいです」と語った。
この人に代表監督としてのオーラはない。金メダルを獲ろうとする日本代表監督としてのカリスマ性もない。しかし、選手がそれぞれ、強力な所属母体を持ち、手厚いサポートを受け、専任のコーチやフィジカルコーチを携えて行動する、現代の日本卓球女子チーム。その仕組を渡辺武弘は知り尽くしたうえで、自分の役割を果たそうとしている。
「選手にもっと寄り添うような監督になりたいですね。主役は選手だし、良いパフォーマンスをしてくれるならそれが一番で、そのために何でもやりますよ」
まるで存在を消しているようでもあり、これほど日本チームを温かく見つめている人はいない。日本の監督は先頭にはいない。しかしチームの後ろから誰よりも力強く支えている。これが日本女子チームのもうひとつのパワーかもしれない。 (今野)
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