卓球王国 2024年10月21日 発売
バックナンバー 定期購読のお申し込み
トピックス

欧州のミスター・バタフライ、今村さん退職。「もともとニワトリ小屋が事務所だった」

6月末の退職の日、TBEのノルテンさんから記念のシャツを贈られる今村さん

 

今村大成

IMAMURA, Taisei
前TBE

(タマス・バタフライ・ヨーロッパ)社長

<前編>

[いまむら・たいせい]
1957年生まれ、富山県出身。1982年にタマスに入社し、84年、27歳の時に駐在員としてドイツの現地法人TBE(タマス・バタフライ・ヨーロッパ)に赴任。以来、ドイツに在住。TBEの社長を経て、今年6月末に退職した。50人以上の日本選手がお世話になった

・・・・・・・・・・・

1997年に全日本チャンピオンの松下浩二が日本人初のブンデスリーガーとしてドイツに挑戦した。そして、5年後のj2002年に坂本竜介、岸川聖也がドイツへの卓球留学をしてから、日本の卓球、とりわけ男子の卓球が大きく変革していく。
その裏でさりげなく、選手の自立を促しながらも、「事故」が起きないように苦心した人がいる。今村大成だ。TBE(タマス・バタフライ・ヨーロッパ)の社長を務め、6月末日で退職。65歳。
この人が世話をした日本選手は50人をくだらない。タマス(バタフライ)の社員でありながら、メーカーの枠を超えて、ヨーロッパで挑戦する日本選手たちをサポートした。
日本選手たちとのこと、今村さん自身のこと、バタフライのこと、ヨーロッパ卓球のことを聞いてみた。
聞き手=今野昇

 

妹に「小さくて面白い会社、

どこかない?」と聞いたら

タマスを教えてくれた

 

●ー今村さんは1982年にタマスに入社してますが、なぜタマスに入ったんですか? 卓球をやってたからですか?
今村 いや、卓球をやっていたのはたまたまです。当時、妹が銀行に務めていて、「小さくて面白い会社、どこかない?」と聞いたら、いくつか教えてくれた会社の中にタマスがあった。

●ー小さくて面白い会社か(笑)。ずいぶん大雑把(おおざっぱ)な聞き方をしたもんですね。大きい会社は嫌だったんですか? 
今村 でっかい会社に入りたいとは思わなかった。他にも受けたんだけど、入る気もない会社で、何回目かの第何次面接をすっぽかしたりしてた(笑)。最後は「この会社が良いかな」とタマスに決めました。

●ー1982年の頃は創業者の田舛彦介さんが社長ですか?
今村 そうですね。創業当時の形ですね。次の社長の(田舛)公彦さんが国内の営業部長でした。TBEには濱野さんがひとりでいましたね。当時、TBEは4人しかいなかった。やめる時には30人でしたけど。TBEの代表はシモンさんでした。

●ー今でこそタマスは、会社説明会もあり、試験・面接があり、入社するのは簡単ではないけれど。
今村 当時の試験は形だけ(笑)。ぼくは試験はほとんどできなかった(笑)。今より相当大雑把ですね。

●ーコネもなく、よく受かりましたね。
今村 受けたのは10人ちょっとくらいかな。受かったのは男性二人、女性二人ですね。会社に入ってからは卓球もやってました。

●ー国内営業部がスタートですか?
今村 国内営業希望で入社したらすぐに輸出部配属でした。でも英語ができなかった(笑)。海外に行くなんて端(はな)から考えていない。面接の時に「ドイツに現地法人がありますが、もし受かったら行きますか」という質問を全員にして、お母さんに聞かないとわからないというのは全員落としたと聞きました(笑)。ぼくは「はい、行きます」と答えました。ただ本当は行きたくなかった。

●ーなんかおおらかですね、当時は。今だったらとんでもないですね。
今村 そうね、会社もとんでもないですね(笑)。行けばなんとかなるよと。1984年にTBEに行って、春に現地でドイツ語の学校に行って、仕事をせずに4カ月間通いました。日本で変な発音のドイツ語を覚えても良くないからと全く勉強せずにドイツに行って、最初の2カ月間は全く話はしなかったですね、聞くだけ。全然わかんないし、数字の「1、2、3」の言い方もわからなかったんだから。
4カ月だとまだ全然ですよ。ひとりで旅行できるかなというレベル。話をするのに怖くなくなるまで2、3年かかっています。ドイツ語の学校にいるのはみんな外国人でしたね。アラブの人とか、アフリカの人で、ぼくは英語も苦手だしね。英語は日本での学校で学んだ英語だけです。ただ英語は仕事で使いますからね、あとから自分で覚えた程度。

当時のTBEは4人だけで、卓球の経験者はぼくだけだった。代表のシモンさんもドイツ語。だいぶブロークンでしたけど、ハンガリー人だからあとはハンガリー語。この人はハンガリーで教育を受けて、ドクター(博士号)を取って、その後、スウェーデンに亡命したのかな。その後、オランダ経由でドイツに来て、ドイツでタマスのディストリビューター(代理店)をやっていた。オランダにいる時にはテニスのナショナルチームの監督をしていた。面白い経歴でしょ(笑)。奥さんは卓球の世界ダブルスチャンピオン(1957年)です。
タマスが1973年にドイツに現地法人(TBE)を作る時にシモンさんが代表になりました。もともとニワトリ小屋を事務所にして、外から見ても会社には見えなかったですね。その事務所は新しくできた社屋の隣町にありました。濱野さんとは引き継ぎで半年間はダブってますね。

●ー当時はタマスとしては社員をローテーションさせながら現地法人に送り込む計画だったんでしょうね。
今村 そうです。3年から5年くらいのローテーションで交代すると聞いていて、ぼくも5年ということでドイツに行ってましたが、それがぼくの時にストップしてしまった。いつまで経っても後任候補が入社して来なかった。
シモンさんが亡くなって上鶴(かみづる)さんがTBEの社長としてドイツに戻ってきた。それでTBEは5人で、日本人が二人になった。

●ードイツで今の奥さん(ハンガリー人のイルディさん)と結婚してますけど、途中で日本に帰るつもりはあったんですか? それともずっとドイツに残るつもりでいたんですか?
今村 40代前半くらいに本社から「日本に戻ってこれるか?」と打診はありましたが、二人の子どもが学校に入る年だったし、ずっと日本にいるかどうかもわからなくて、日本のドイツ語学校に通うとか、インターナショナルスクールは(お金が)高すぎて払えない。だから、「出張が多くなってもこっち(ドイツ)にいさせてください」と言いました。

関連する記事