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インタビュー

マスターズ王者・田中敏裕は元国連職員。「マスターズ優勝は自分の人生のジャンプ台」

 

田中敏裕

全日本マスターズ選手権ローシックスティ(60歳以上)2連覇/東京・九十九

昨年12月の全日本マスターズ選手権の60代(ローシックスティ)で2連勝した田中敏裕

 

「一番に目指していたインターハイ。
決定戦で負けてしまって、
それが本当に心残りで、悔しい思い出ですね」

何がこの男を卓球に向かわせるのか。卓球少年だった頃に味わった悔しさなのか、日本のテッペンに立ちたい執念なのか。セカンドライフの中での自己証明の発露なのか。
卓球に魅せられた30歳から80歳以上までの強者が集う全日本マスターズ選手権大会。元日本代表の選手もいれば、卓球に人生を懸けているような人も数多い。いわゆるピンキチの巣窟のような大会だ。そこで田中敏裕は昨年、ローシックスティ(60歳以上)で2連覇を達成。正直、洗練されたプレースタイルと言うよりも、泥臭く点を取りに行くスタイルだ。しかも台に向かった時の目つきも尋常ではない。田中敏裕とは一体何者なのか。

●ー昨年の全日本マスターズ選手権で田中さんはローシックスティ(60歳以上)で2連覇している。早稲田大の学生時代、リーグ戦でも活躍していた記憶もあったけど、いきなり戻ってきた印象もあります。実際のところ、大学時代以外の経歴がわからないので教えてください。
田中 ぼくは鹿児島県の南さつま市(旧加世田市)にある津貫という農村で生まれました。父と母が卓球をやっていて、私は3人兄弟で兄と妹も卓球部でした。小学5年生の時に学校に卓球台が1台入って休み時間に遊んだのが最初です。津貫中学校で卓球部に入って、顧問も卓球を教えたことのない先生だったので、先輩とか自分たちで好きなように練習してましたね。
ぼくも自己流でしたが、中学時代に一般の人を含めて加世田市で優勝してます。鹿児島の同期には永福則人くんがいて、中学2年の時、彼に県大会の準決勝で逆転負けして、全国大会に行けなかった。九州大会でも準決勝でまた永福くんと対戦して敗れて3位でした。永福くんは中学卒業後に熊谷商高に行って、インターハイで優勝しています。あそこで勝っていたら、ぼくの卓球人生も変わっていたかもしれませんね。
高校は、県の強豪校からも誘われたけど、進学を優先して地元の加世田高校に行きました。加世田高校の男子卓球部は休部状態で、中学時代の仲間に入部してもらって練習しました。顧問の先生は名ばかりで練習も試合も見に来ないので、ぼくがチームのみんなを率いて、鹿児島市内の親戚の家に泊めてもらったりして、生徒だけで大会に出ていました。県内で団体では3位になって九州大会に出場しています。個人では県で準優勝とか3位とかもありました。でも一番に目指していたインターハイには2年と3年の時も決定戦で負けてしまって、それが本当に心残りで、悔しい思い出ですね。3年の後半は勉強して、早稲田大に受かって、大学では卓球同好会に入りました。

 

●ー体育会ではなかったんですね。
田中 インターハイにも出てないし、当時は卓球で生きていく人生というか選択肢は考えられなかった。卓球同好会は会員が200人以上いて、インターハイに出たことのある選手もいるんだよね。ぼくは一年の時の会内試合で優勝できて、同好会は遊びというか卓球を楽しむ会だし、ほとんど練習に参加してなかった。
高校までは、勉強以外は卓球だけをしてきたので、大学というところは、卓球ではなく、授業でもなく、社会勉強をするところだと思っていたね。ぼくは大学のころは、新聞社とかジャーナリスト志望で、いろんな世界を観たいと思っていて。ぼくの父は海外労働者の息子でロスアンゼルス生まれ、母方はブラジル移民の叔父がいて。昔は貧しい田舎から外国へ安い労働力として渡っていたんだよね。なんとなく、おれも世界に出ていくんだという気分があったね。

 

●ー移民系の系譜ですね。
田中 大学1年の時に早稲田精神昂揚会というサークルにも入って、入ったら右翼も左翼もいたけど、日本各地を歩く合宿したり、ただバカをやりたい奴らだった。ぼくは、シルクロードを歩こうという計画を持っていて、中国探求会というグループを結成して、語学勉強したり、中国大使館と交渉したりしていました。当時の中国はまだ開放してなくて、外人が勝手にどこでも歩けるような時代ではなくて暗中模索だったけど。

 

●ーなかなか体育会にたどりつかない(笑)。
田中 大大学2年の秋に、体育の授業で卓球を取って、その授業で卓球のアシスタント(体育会の卓球部)の連中にも勝つわけですね。それで授業を教えていた葛西順一先生(当時全日本3位)の目に留まって、卓球部に入らないかと強く勧められました。
当時早稲田大はインターハイチャンピオンを4年連続で(入試で)落としていて、高校の上位選手が取れなくて、2部に落ちていました。そうでなければ、同好会のぼくを勧誘することもなかったでしょうね。もう2年の秋季リーグも終わった頃でしたね。

 

●ーそこで体育会に入るんですね。
田中 はい。それまで日ペンで裏ソフトを使っていたのですが、表ソフトのほうが合っているんじゃないかと言われ、中国式ペンの表ソフトに変えました。よく練習に遅刻して、罰で5キロとか走らされました。大学人生が暗くなった気もしましたが、練習はがむしゃらにやって、先輩の学生ランカーの中山さんやインターハイ2位だった島富くんとも互角になって。3年の春頃には、早稲田大のリーグ戦メンバーに入ってました。

 

●ーそんな人はなかなかいないですね。同好会で一生懸命やったわけでもなく、卓球の授業で見初められ、体育会に入るなんてね。

田中 いないですよね。3年の関東学生二部の春季リーグでは、全試合トップで出て、5戦全勝のデビューでした。秋季リーグもトップで5戦全勝でした。でも肝心の専修大学との入れ替え戦では、ぼくが負けて早稲田は一部に上がれず。悔しくて申し訳なくて涙が止まらなかった。
4年の時の入れ替え戦は日本大学が相手で、ぼくは勝ち点をとれたけど、チームは敗れて、結局一度も1部に上がれなかったなあ。インカレでベスト8を守リ続けたことが誇りだとチーム仲間になぐさめられました。
3年の時に、ぼくが1年の頃から計画していたシルクロードを歩く話が、ビールで有名な青島市から孔子の故郷(曲阜)を通って皇帝が即位式をする泰山までという500キロ余りのコースなら許可するという話になったんですよね。それで昂揚会の学生みんなで資金集めして、新聞にも載りました。最近までサッカーのJリーグのチェアマンをしていて、バドミントン協会の副会長になった村井満くんは、親しい学友で、このときの中国遠征隊のメンバーの一人です。春季リーグ戦と重なっていて、結局、ぼくは中国遠征に行けなかったんですよね。

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