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インタビュー

マスターズ王者・田中敏裕は元国連職員。「マスターズ優勝は自分の人生のジャンプ台」

2017年、ペルー卓球協会に招聘された田中。標高3800mにあるチチカカ湖でウロス族の子どもたちとの交流

 

青年海外協力隊で南米ペルーで指導。
途上国で国際協力の仕事をしたいと
いう思いが強くなった

●ー在学中は海外には行けなかったんですね。
田中 そうなんですよ。卓球では海外の大会に出してもらえる実力はなかったし。全日本選手権には出たけど、山本恒安(当時同志社大)くんに完敗しました。その後、シチズンで山本くんにも永福くんにも再会することになって。人生は不思議というか、おもしろいよね。
大学4年の時に朝日新聞とかマスコミの入社試験に落ちて。当時強かった日産自動車の長谷川監督がうちに来ないかと誘ってくれたのは、本当にありがたいことでしたね。でも、卓球でチャンピオンになれる器ではないと感じていて。それなら、今こそ海外に出る時じゃないかと思って。

 

●ーそれで青年海外協力隊ですか。
田中 海外に行くだけではなく、ある程度長い期間住んでみないと、言葉も上達しないし、その国の人たちとわかりあえないと思ったので。大学1年の頃、難民問題が深刻になっていて、カンボジア難民を救う会に参加して街頭募金とかもしました。ボランティアでカンボジア派遣とかの企画にも応募したのですが、選ばれなかった。協力隊は紛争地には行かない。手に職がないとダメだし、それで卓球で応募したんです。卓球の要請があるのはペルーとモルディブだった。尊敬する早稲田の大先輩である木村興治さん(元世界ダブルスチャンピオン・元日本卓球協会専務理事)が技術試験の担当で、ペルーを勧めてくれたのも木村さんです。本当にお世話になっていて、感謝しかないですね。

 

●ーペルーの時には現地で卓球を教えてましたね。
田中 はい。行ってみたら連盟にはすでに中国人コーチが3人いて、ぼくは小中学校で卓球クラスを始めてほしいと、どさ回り役でした。ラケットとボールを持って学校廻りして「チノ、チノ(中国人)」とからかわれて石とか投げられたり、壊れた教室や校庭に卓球台を置いて教えてました。そのあとで、毎日ナショナルチームの練習場に行って、誰よりも練習して、誰にも負けたことはなかったですね。連盟のトップが入れ替わってからは、ぼくがナショナルチームのスパーリングコーチになって、USオープンには選手としても出ました。クラブチーム戦での優勝と、当時の世界チャンピオンの江加良から1ゲーム取ったのが一番の思い出ですね(笑)。
ペルーには2年半いました。日本に戻っても当時は中途採用する企業が少なかった。早稲田の先輩もいるシチズン時計の特販部に採用してもらえることになって、ありがたいことだった、でもその時に部長さんに「腕を折れ(卓球はするな)」と言われました。仕事で採用するんだからと。でも仕事を終えて、中国人研修生に日本語を教えたり、夕方とか土日に、石谷悟さんとか林直樹さんとか一緒に練習させてもらって、全日本社会人と総合団体に出ています。

 

●ー2年でシチズンを辞めてますね。
田中 当時は企業の社会貢献とかは当たり前の時代ではなくて、ぼくは、やっぱり途上国で国際協力の仕事を人生にしたいという思いが強くなって。辞職願いを出したとき、部長に「お前は熱病にかかっているんだ」と諭されました。仲人もしていただいてお世話になりましたね。それからJICA(国際協力事業団)の協力隊調整員としてドミニカ共和国に行きました。28歳でした。
ペルーもドミニカ共和国もスペイン語で、言葉はほぼ独学です。ドミニカ共和国は貧しいですが、みんな人生を楽しむことに長けてましたね。メレンゲという音楽と踊りとビールと笑いにあふれていました。野球でも有名ですが、ドミニカ共和国はスポーツが盛んで、卓球もラテンアメリカチャンピオンがいて、土日は一緒に卓球交流してました。当時の卓球仲間のファン・ビラくんは、ラテンアメリカ卓球連盟の会長になってます。
30歳をくぎりに日本に戻ってきてJICAで援助研究の仕事を手伝っていた時に、海外長期研修制度に合格して、それでニューヨークにあるコロンビア大学の大学院に留学しました。卒業する時に、国連開発計画(UNDP=国連の開発部門の中心機関)の若手職員の募集があって、2千人くらいの応募があったようですが、最終的に20人という狭き門に運良く残れた。それまで多様な経験をしてきたことと、スペイン語と英語ができたことが役に立ったのでしょうね。

 

●ーそれで国連機関職員になった。
田中 はい。でもUNDPは契約は1年だけしかしてもらえないんですね。それで、2〜4年したら次のポストを探さなければならなくて、競争に負けて行き場所がなくなると辞めさせられる。緊張感のある職場ですが、能力が認められれば昇進は早いです。ぼくにとっては入れただけで夢のような職場でした。

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