●ー1994年からUNDPミャンマー事務所で務めてますね?その頃のミャンマーというのは軍事政権下ですか?
田中 はい。UNDPに入って、最初の赴任地がミャンマーでした。軍事政権で、アウン・サン・スー・チーさんが自宅軟禁されている時期ですね。当時のUNDPは人間開発イニシアティブという貧困農村地域の開発プログラムを実施していて、公衆衛生、HIV/AIDS、そしてマイクロファイナンス(小規模融資)などを担当して、今、ロヒンギャ難民が出ているラカイン州へも何度も行きました。
●ーさすがにミャンマーでは卓球をできなかったでしょ?
田中 いやあ。週末に定期的にやってましたよ。ナショナルチームの練習場へ行って、ぼくはだれにも負けたことはなかったですね。そのときのジュニアチャンピオンだった中国系の葉旗山くんは、台湾に移住して卓球場を経営していて、毎年1月の唐橋杯卓球大会の常連になってます。唐橋杯で再会したときはびっくり。今年は、葉くんが50代で、ぼくが60代でアベック優勝して、4月はぼくが台湾の大会に参加する約束しました。
ミャンマーは5年いました。ミャンマーの人たちは日本的な心情もわかる人が多くて、物価は安いですし、犯罪とかも少ないですから、家族で住むには最適でした。次は、念願の中国に行けることになって、首の皮がつながりました。
●ー中国なら週末は卓球ですね。
田中 もちろんです(笑)。強い人はいっぱいいます。中国事務所はむちゃ忙しかったので、試合には出れなかったけど、練習はたくさんできた。中国では貧困削減のプログラムを担当していました。
次席代表に昇進して国連の総務を担当したとき、中国側と卓球の交流会をしたことがあります。ぼくの鼻を明かそうと中国側が連れてきたセミプロ的な選手と対戦して、ギリギリ勝って面目を保ったこともありました。白酒の乾杯合戦もよくやらされましたね。
●ー中国の後にブータンに行きますが、必ず卓球はしてるんですね。
田中 ブータンには協力隊の卓球隊員がいた時代もあったのですが、ぼくが行ったときには、誰も練習していなくて、ジュニアの選手を鍛えて、卓球のナショナルチームチームを復活させました。ブータン王国には体育館というものが一つもない。細長い古い木造の小屋がこの国唯一の連盟の卓球場で、4台並べて練習。もともと家も貧しく、自分で用具を買うという習慣もないので、ラケットもラバーも、ぼくが日本から購入したものを選手や生徒に使わせて、ナショナルチームメンバーになると、そのままあげちゃってました。
協力隊の新規の卓球隊員として植田清仁くんが来てくれてからはサポート役になって、植田くんは横浜の世界選手権大会にブータンチームの参加という快挙を成し遂げたね。その後に三浦さん(文香・現ナショナルチームスタッフ)が来られました。2016年に日本・ブータン国交樹立30周年記念イベントとして、日本卓球協会のブータン訪問団を招聘して交流大会を開いたときには、三浦さんが大活躍してくれましたね。
●ー自分が希望した国に行けるんですか?
田中 いいえ、競争ですね。この国に行きたいと思ったら、あとは履歴書と面接試験とかで競争して勝ち取る。ブータンの時は他に競争するような人がいなかったと思います。ぼくも家族を連れていけないので、本当は行きたくなかった。
●ー行く時には家族も一緒ですか?
田中 できれば、そうですね。最初の頃は小さい子どもが4人いるからあまり移動したくなかったですね。上の二人の子はインターナショナルスクールに通わせていました。ブータンには外人の子どもが行ける学校がなくて、パキスタンには3年いたけど、テロ攻撃とかあるので、家族は連れていけない国でした。
パキスタン事務所長のポストは面接試験があって、ぼくが選ばれたという合格メールをもらったすぐあとで、パキスタンのWFP(世界食料計画)事務所が自爆テロの襲撃を受けて、5人の職員が死んだという知らせがきた。「これはたいへんな所に行くことになったな」と。自爆テロ犯はまずUNDP事務所を狙ったと聞きました。パキスタンでは勤務中は防弾車で移動してました。紛争や洪水被災地の人道的な救済や復興支援が活動の中心でした。
その後、フィリピンの事務所長を2年。そしてニューヨークのUNDP本部に行って、最後に国連人口基金(UNFPA)のインド事務所に行きました。パキスタンやフィリピン、インドでは、卓球する相手が見つからなかったので、週末はテニスをやってましたね。走るのが好きなので、テニスも性に合ってて、クラブのコーチといい勝負でした。
インドにいる時に、父と義母が亡くなって。そして母が認知症になりました。単身赴任になって12年。そろそろセカンドライフを考えるときかなと。国連を退職して帰国したのが、2016年、56歳でした。
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