全日本のNT(ナショナルチーム)男子の倉嶋洋介監督が9月末日でNT監督を退任する。
1976年生まれの45歳。埼工大深谷高時代にインターハイ団体優勝、明治大に進んだ後はインカレ4連覇に貢献、協和発酵(その後、協和発酵キリン、現在は協和キリン)に入社後は、全日本選手権の混合ダブルス・男子ダブルスで4回の優勝。シングルスのタイトルこそ恵まれなかったが、団体での全国優勝は数多い。また、大学時代から世界選手権、五輪のスパーリングパートナーとして数多くのビッグゲームに帯同していた。2001年には混合ダブルスで世界選手権大阪大会に出場している。
そんな選手・倉嶋洋介がラケットを置いたのは、2010年1月の全日本選手権で、最後の相手は中学3年の丹羽孝希だった。かつては『全日本男』の異名を持ち、ベスト8、ベスト4と全日本選手権での活躍が光っていたが、引退するまでシングルスのタイトルは獲れなかった。当時、現役引退する時のインタビューでこう語っている。
「技術的に何かが足りないと感じたことがない。言い方を変えれば、自分に足りないものが何かわからなかった。わからなかったからチャンピオンになれなかったのかもしれない」(卓球王国2010年5月号より)。
倉嶋洋介は歴代の全日本監督、野平孝雄、高島規郎、前原正浩、ソーレン・アレーン、そして宮崎義仁から可愛がられた。それは彼の人懐っこく、誠実で裏切らない性格のせいだったからだろう。
そして、33歳の時の全日本を最後の試合として区切りをつけ、同時に退職して、ナショナルチームのコーチになる決断をした。当時、トップ選手が現役を引退してNTコーチになる例はなかった。とりわけ、将来を保証されている一流企業を退職し、プロコーチの道を歩むことに、周りで反対する人は多かった。「賛成と反対が半々だった」(倉嶋)。
「選手を引退しても、根底には卓球が好きだ、という強い思いがあります。会社に残るよりも、26年間やってきた卓球を生かして、それでたくさんの卓球愛好者のために貢献できるのであれば力を尽くしたい」「奥さんも最初は反対だったけど、結局好きなことをやりなさい、家族は応援すると言ってくれました」(2010年5月号インタビュー)。
この11年前のインタビューで倉嶋の最後の言葉はこうだった。「夢ですか? オリンピックで君が代を聴きたいですね」。それは目標ではなく、夢。2010年当時は水谷隼、岸川聖也がようやく世界で勝ち始めたものの、中国に対抗するレベルでなかったのも事実だ。中国を倒して金メダル、という言葉は一種の「憧れ」の象徴的なフレーズだった。
しかし、その倉嶋の夢は11年後の7月26日に叶えられた。
また現役時代から「感激屋」であり、我々は「泣き虫洋介」と冗談で言うほどに、涙もろい性格だった。当時、インタビューが終わり、「コーチとしてまず鍛えるべきは、その涙もろさの克服かな」と笑いながら彼に言った。
結局、その涙もろさは克服できなかった。東京五輪で金メダルを獲得した時に、水谷隼と伊藤美誠をハグし、涙で目が真っ赤になったのは言うまでもないが、ある世界選手権の日本代表選考の時には、代表から外した選手の前で涙をこぼしたこともあった。
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