卓球王国 2024年11月21日 発売
バックナンバー 定期購読のお申し込み
今野の眼

13年間の長い旅の終わり。「全日本チームを去る」NT男子監督、倉嶋洋介

メダルを決めた、その日に「退任」を決めた。

2012年ロンドン五輪での屈辱が根底にあった

 

2012年10月、NT監督に就任した倉嶋氏。36歳の時

 

2012年10月に前任の宮﨑義仁監督から、監督を引き継いだ倉嶋洋介。36歳の若き監督の誕生だった。倉嶋流のコーチングスタイルを問えば、「重要なのは選手との対話。チームとしての規律。そして妥協せずに練習に取り組む高いプロ意識」と答えた。

コーチ時代は選手との距離感が近く、兄貴的な存在だったが、監督になった後はある一定の距離を保ちながら、選手との対話を絶やさなかった。

 

「4年後のリオ五輪で良い報告ができるために死にものぐるいで頑張りたい」とインタビューに答えている。その言葉の裏には、コーチとして帯同していた2012年ロンドン五輪の屈辱があった。

男子団体と水谷のシングルスのメダルが期待される中、両方でメダルを逃した悔しさ。帰国した空港で、銀メダルを獲得した女子チームがスポットライトを浴びる中、うつむきながら空港を後にする男子選手団。その中に倉嶋はいた。

 

しかし、有言実行として、2016年リオ五輪では団体で銀メダル、水谷は史上初のシングルスのメダルを獲得した。倉嶋は準決勝でドイツを破ってメダルを決めた後も、水谷が銅メダルを決めた後も目を腫らしていた。

 

それから東京五輪を目指す中で、まだ13歳だった一人の少年に彼は刮目した。張本智和だ。幼少時からモンスターと呼ばれたこの英才を鍛え上げた。そして、その張本は東京五輪で、団体のエースとしてメダル獲得に大きく貢献した。張本の武器であるバックハンドを活かしつつ、世界で勝つためにフォアハンドの強化も怠らず、張本のプレースタイルの設計を倉嶋は書いていった。

 

新型コロナ感染拡大によって東京五輪が延期され、逆算していた4年間のプランニングは変更せざるを得なかった。「もし予定通りだったら結果が違ったかも」という思いは倉嶋の中にもある。今回のメダルラッシュよりも、男子はさらに成績が良かったという意味だ。

 

東京五輪の最後の男子団体銅メダル決定戦で勝利を決め、勝って五輪を終えた倉嶋監督は試合後に記者に囲まれた時にこう語っている。

 

「選手もスタッフも一丸でこの5年間戦ってきた。特に五輪が延期になったこの1年間は苦しいことも多かった。五輪までの4年間で計画を立てて、その中で順調に五輪に向けてやってきたのに、それが総崩れしてしまった。そんな中でもみんながサポートしてくれたり、努力を続けてきたことでここまで来られたので本当に感謝しかない。最後にこうやってメダルを獲って、勝って終われたのは良かったなと思う」

 

引退を表明している水谷に関しては、「パリ五輪に向けて張本は当然ながら、他の若い選手もあと3年で伸びてくると思う。国際大会が平常時のような形で開催されるようになれば、他の選手も成長してくる。水谷にも、『まだまだできるよ』とは話している。ボル(ドイツ)も40歳でやっているし、4年間ずっと頑張るのは難しいけど、五輪に向けた調整力が優れているので、フィジカルさえ整えばまだできる」とコメント。

 

「パリまでにすごい若手が出てくる可能性もあるし、水谷や丹羽が意地を見せるかもしれない。張本を超えるエースが出てくるかもしれない。パリまでの3年はそういう楽しみもある」。このコメントで締め、自分自身の去就に関する話は一切なかった。

 

倉嶋洋介監督が指揮を執った2回の五輪で、シングルスと混合ダブルスを含め、4個のメダルを獲得した。また2012年10月に監督就任して、その後の世界選手権団体では、14年銅メダル、16年銀メダル、18年ベスト8、という成績を残した。

 

「五輪で団体のメダルを決めた後、その日のうちに退任を決めた」(倉嶋)。倉嶋洋介のNT監督としての長い旅は終わった。 (文中敬称略)(今野昇 卓球王国発行人)

 

表彰式のあと、選手たちにメダルを懸けられた倉嶋監督(写真提供 温田哲亮氏)

 

 

関連する記事