卓球王国 2021年7月20日 発売 vol.292
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58歳の倪夏蓮の素晴らしき卓球人生。「卓球には感謝しているし、卓球はすべての人が好きになるスポーツだと思う」 <後編>

倪夏蓮

ゲイ・カレン/ニ・シアリエン

Ni Xialian

2019年ヨーロッパ競技大会の倪夏蓮

 

58歳の倪夏蓮の素晴らしき卓球人生。

「卓球には感謝しているし、卓球はすべての人が

好きになるスポーツだと思う」 <後編>

夫でありコーチのトミー・ダニエルソンがベンチにいつもいる

 

 

東京五輪は倪夏蓮にとって5度目のオリンピック。

中国の国家チームを離れる時に

一度は自分のキャリアは終わったと思っていた倪夏蓮。

こんなに長く卓球をやるとは思っていなかった。

彼女をそばで支える夫のトミー・ダニエルソンを抜きに

倪夏蓮の卓球人生は語ることはできない。

 

インタビュー=今野昇

 

「ルクセンブルクではプロ選手は無理なの。

小さい国だからプロの卓球選手はいない」

 

●ーー1985年の世界選手権に出たあと、あなたは89年にドイツに渡るけれども、その間はどうしていたんだろう。

倪夏蓮 85年の世界選手権のあと、86年2月に国家チームを離れ、上海交通大学に行きました。大学のほうも来てほしいと思っていたし、私も勉強をしたかった。まだ22歳だったけど、将来のことを考えていた。国家チームでも複雑な問題があったし、国家チームから離れることはうれしかった。私自身は正直な人間だし、自分の気持ちに従う人間なの。だから89年にドイツに渡ったし、今でもヨーロッパに住んでいる。

大学で勉強しながら、私は上海チームのコーチもしていた。世界で優勝した人というのは、ある程度自分の好きな道を選ぶこともできる。私は将来、子どもたちを教えるコーチになりたかったし、子どもも好きだった。

 

●ーーなぜそんなあなたがドイツに行ったんですか?

倪夏蓮 私の性格はオープンで、自分に自信がある。それにもうひとつの大きな理由は、その頃の中国はオープンになり、中国を離れ、海外に行く人が多かった。特に日本に行く卓球選手は多かったし、私も日本行きを考えました。でも最終的にはドイツに行くことを選んだし、それまでは両親と一緒にいたかったんです。

 

●ーーおそらく3、4年間くらいドイツにいて、中国に戻るつもりだったのでは?

倪夏蓮 そうそう。でも何が起こるかわからないものね。私の前の夫とドイツに来たし、両親もあまり心配してなかった。私はひとりじゃなかったから。私は言葉もわからず、ドイツの生活も文化も、何もわからなかった。ドイツに行った時には2部リーグのチームに入りました。

このチームは1部に上がることを目標にしていた。全試合に勝ったので、いくつかのブンデスリーガ1部のチームやルクセンブルクの協会からもオファーをもらい、最終的にはルクセンブルクを選びました。1990年6月にルクセンブルクに移り、ナショナルチームとクラブチームで活動するようになった。ルクセンブルクのリーグ戦では男子チームに入ってプレーしていて、負けなかったわ(笑)。

ルクセンブルクではプロ選手は無理なの。小さい国だからプロの卓球選手はいない。1994年にコーチのトミーと知り合い、その後に結婚するけど、私たちは不動産の仕事をして、ホテルをひとつ買って、それを貸したりしている。私は卓球選手だけで暮らしているわけじゃないのよ(笑)。でも、練習する時間もあるし、今は90歳の母も一緒に暮らし、18歳の子どももいます。

 

「すべての試合で、私はベストを尽くすのが信条なのよ。

それはオリンピックでも他の試合でも同じなんです」

 

●ーールクセンブルクに移ってからのあなたの卓球へのモチベーションと、生活の楽しみとは何でしょう?

倪夏蓮 最初の頃は、協会と契約して、選手として、そしてコーチとして責任感がモチベーションだったわね。中国で私の選手としてのキャリアは終わっているけど、ルクセンブルクではプレーヤーであり、コーチだったし、1991年には世界選手権千葉大会にも行った。

1994年には協会はオリンピックに出るように打診してきたけど、私は断ったの。私はクラブチームとともに生活していて、彼らは私の生活や前の夫の仕事も探してくれたし、私はクラブでコーチもしていた。当時、クラブは私がナショナルチームに行くのではなく、チームにいてほしいと願っていたし、私は恩返しをしたかった。その頃はオリンピックに出なくても良いと思っていた。

その後、1998年に私はルクセンブルク代表として試合で結果を残して、世界ランキングも4位まで上がった。ナショナルチームでもプレーヤー、そしてコーチとして働いていたけど、初めてオリンピックに行くことになったし、クラブも気持ちよく送り出してくれた。

2000年シドニー五輪が初めてのオリンピックで興奮したけど、ホームシックで、終わったらすぐにルクセンブルクに戻ったのよ(笑)。家族、両親にも会いたかったし、友だちにも会いたかった。私は家族的な人間なのよ。

2004年の時にも私は世界ランキング8位くらいだったのでオリンピックに出場できたけど出ませんでした。オリンピックは1回出ればいいかなと思っていた。それに、その1年前に2人目の子どもを出産していたので、2002年の4月のヨーロッパ選手権のあとに一度卓球をストップしている。自動的に世界ランキングで選ばれるのはわかっていたけど、出なかった。2007年まで選手生活はストップしていたんです。

でも、2008年の北京五輪は特別だった。私は国家チームの時に北京に6年間いたので、北京五輪に出たいと思ったし、もう一度行ってみたかった。それに多くの中国の友人からも「来てね」と言われた。

すべての試合で、私はベストを尽くすのが信条なのよ。それはオリンピックでも他の試合でも同じなんです。

2008年のオリンピックのあとに、一度卓球をストップしたけど、2010年頃から協会の人が何度か家に来てオリンピックに出てくれないかと打診され、「みんながそれでハッピーになるなら、わかったわ」とOKしたんです。プレッシャーはあったけど、ハッピーだった。ロンドン五輪の時に49歳だったのよ、協会は「あなたならできるよ」と言い続けたけど、「年齢的にもう無理よ」と思っていました(笑)。

私は本当に愛すべき夫(現夫・トミー・ダニエルソン)に感謝しているの。私は世界で一番のサポーターを持っている、それがトミーよ。

 

ーートミーはどういう存在?

倪夏蓮 彼とは1994年から選手とコーチの関係だった。結婚して20年かな。娘は18歳、高校生です。最初の夫との子ども、息子は29歳になってる。もうすぐおばあちゃんね、まだだけど。ルクセンブルクに来て半年後に妊娠して、クラブの人には「ちょっと早いわね」と言われたけど、私はその時29歳で、30歳までには子どもがほしかったし、子どもが好きだったの。卓球はいつでもできるけど、子どもを作るのはいつでもというわけじゃないでしょ。

 

●ーー私はひとつ誤解していた。あなたは卓球に魅せられ、卓球に人生を捧げているような人だと思っていました。

倪夏蓮 私は普通の人よりも家族的な人間なのよ。両親の世話もするし、夫や子どもの世話もする。子どもが生まれたら、親としても責任もある。それと卓球選手を両立させるのは簡単なことじゃない。家族を犠牲にして卓球はできないのよ。