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江口冨士枝 ~知られざる用具秘話~「スズエちゃんのコルク」

<卓球王国別冊「卓球グッズ2009」より>

グッズ・ストーリー

~知られざる用具秘話~

 

ラケットはチャンピオンの戦友なのだ。

血のにじむような練習の間、常にその手に握られ、

試合での決定的な場面でチャンピオンたちは、

そのラケットに全幅の信頼を寄せ、ボールを打ち込む。

その信頼を作り上げるために、チャンピオンはむやみにラケットを変えない。

付き合いの長いそのパートナーにまつわる物語がそこにある。

ラケット写真=高橋和幸

 

1957年ストックホルム大会の江口冨士枝とヘイドン(左)

 

 

 

スズエちゃんのコルク

Fujie Eguchi

江口冨士枝

1957年世界選手権

女子シングルスチャンピオン

 

超人的なフットワークを使いながら放つ

フォアハンドのスマッシュ。

1957年に世界を制し、世界選手権で

金メダルを6個獲得した江口冨士枝。

世界の頂点に立った時、

その右手に握られていたラケットは、

中学時代に卓球部の仲良しと

一緒に買った桧単板のラケット。

そして裏面にはコルクが貼られていた。

 

1957年世界選手権ストックホルム大会で優勝した江口冨士枝のラケット

 

1957年、世界選手権ストックホルム大会。女子シングルス決勝を前に、会場の雑音を避けて、江口冨士枝はトイレに閉じこもった。準決勝で同僚の渡辺妃生子を下し、決勝の相手はイングランドのヘイドンだった。江口は集中力を高めるためにトイレでずっと座っていた。

そして、そろそろ呼び出しが始まると思い、頭の中で作戦を考えながら、照明の消えた真っ暗な練習場を通って、会場に向かって歩いていた。そうしたら急に暗闇の中で長椅子が動いた。「ああ、びっくりした」と思ったら、田中利明だった。荻村伊智朗との男子シングルス決勝を控え、照明の消えた練習場で横になっていたのだ。

江口はみんなに『おっきいカアちゃん』と呼ばれ、伊藤和子(旧姓・山泉)は『ちっちゃいカアちゃん』、荻村は『おっきいトオちゃん』、田中は『ちっちゃいトオちゃん』と呼ばれていた。

江口は田中と言葉を交わした。

 「ヘイドンだな」(田中)

 「うん」(江口)

 「負けるなよ」(田中)

 「うん、頑張る。荻村さんとやるから私は応援できないけど、ちっちゃいトオちゃんも頑張ってね」と声を掛けて、江口は会場に向かった。ヘイドンにはゲームオール19本で勝ち、世界選手権4回目の出場にして、江口は念願の優勝を飾った。その後の男子シングルス決勝では田中が荻村を下し、2度目の優勝を飾った。江口は当時を振り返る。

 「日の丸をつけたら、責任感とプレッシャーがすごかった。日本を出発する時と前半の団体戦が終わった時の写真を比べるとげっそりしてる。そしてその後の個人戦が終わったらさらにげっそりして、みんな身を削るような戦いをしていた」。

江口冨士枝は長崎県で生まれ、6歳の時に大阪に移り住んだ。5人姉妹の末っ子で家は美容室を経営していた。江口は中学から卓球を始めた。最初は木だけのラケットでボールを打っていたが、次に短い期間ながらコルク貼りのラケットを使った。そのうちにラバーが出現し、一枚ラバーを使い始めた。

中学3年の時、1学年下に小柄なショートマンがいた。彼女はラバーに変化を持たせるため、裏ラバーを三枚重ねて使っていた。その後輩は島林鈴栄。江口は「スズエちゃん」と呼んでいた。

大阪の天王寺にある卓球メーカー「滝川パルマ」に、スズエちゃんと二人でラケットを買いに行った。柾目の桧単板ラケットを自分で選んだ。「私はラバーを二枚貼って先が重くなるから要らない」とスズエはラケットの裏のコルクをはがした。江口は、逆にラケットの先端を重くして遠心力を使いたいから、「あんた、いらんねやったら、そのはがしたコルクを私にちょうだい」と彼女からコルクをもらった。その場で自分のラケットの裏面の先端寄りにコルクを貼った。

江口は中学3年に買った単板ラケットを現役を引退するまで使い続けた。当然、ストックホルム大会で優勝した時に握っていたのも スズエちゃんのコルクを貼ったラケット だった。スズエとは中学・高校と一緒に卓球をやった。彼女は性格も良くて、大の仲良し。一緒に国体も行った。

スペアラケットを持って試合に行っても 、ラケットを割ったことがないからスペアを使ったことがない。長く使い続けたラケットなのでグリップもしっくりくる。

裏面の上半分にコルクが貼られ、その右側が削れているのは、フォア前を打つ時に台によくぶつけていたためだが、一度もラケットを割ったことがない。

ラバーも貴重品の時代だった。「動き回ってフォアハンドを打つので、粒の根元の片側が一方的に切れる。そうすると回転がかからなくなるので、練習の時にはラバーをひっくり返して、貼った。小遣いがないから、1枚のラバーをくるくる回しながら4、5回使った。当時の一枚ラバーは95円だったけど私が使っていたのはタマスの『003』というラバーで、110円だったのを覚えている。チャンピオンになる前も、なってからも自分で買っていました」。

卓球を始めた頃、父には「あんなメシしゃもじ振り回して何になる」と卓球をやるのを反対されていた。将来家業を継ぐために、高校生の時に美容師の国家試験を通り、高校を卒業してからは高島屋百貨店に入っている家の美容室で見習いとして働いていた。その1年間は、高島屋百貨店の卓球部で週に1回の練習だけだった。「その頃は実業団の試合もなかったから、卓球をやりたいという気持ちがうっ積していた。いろんな大学から誘いがあっても父が全部断ったし、美容師になるんだからと、私もあきらめていた」。

しかし、卓球への思いを断ち切れずに、「もっと卓球をやりたい」と冨士枝は父に懇願する。大学に行くことを認めた父の希望は冨士枝が医科大に進むことだった。冨士枝は昼は美容室で働き、夜は受験勉強をして、大阪薬科大学に入学。専門大学ゆえに授業も厳しかったが、「そこに良いコーチや練習相手もいた。卓球ができることがうれしくてうれしくて。そしてインカレで優勝した。だけど、目標を決めてそれに向かってやることはなかった。自分の限界を広げればいい。自分のやりたいことをやれればいい、と無欲でやってました」。その後江口は、好きな卓球ができる喜びを胸に、全日本学生選手権で優勝し、全日本選手権でも初優勝を飾った。選考会を経て、晴れて江口は日本代表の切符をつかみ、初出場の54年ロンドン大会では女子団体優勝に大きく貢献した。

 「卓球やりたい」という渇望感を抱いていた中学時代の江口冨士枝。その中でお小遣いをはたいて購入した桧単板ラケット。その裏に貼っていたのは仲良しだったスズエちゃんのコルク。そんな卓球少女時代の冨士枝の思いが刻まれたラケットは、今でも輝いて見える。

 

1956年世界選手権東京大会での江口

 

えぐち・ふじえ

1932年11月18日、長崎県長崎市生まれ。6歳で大阪に移る。1957年世界選手権女子シングルス優勝。世界選手権には5回出場し、6個の金メダルを獲得。超人的なフットワークから放つフォアハンドスマッシュを武器としたペンホルダー一枚ラバー攻撃型

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