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インタビュー

「おばあちゃん」はWTTのチャンピオン。還暦を迎え、孫もいる倪夏蓮の勇躍「卓球にはとても感謝している」

倪夏蓮

ゲイ・カレン/ニ・シアリエン

Ni Xialian

アメリカから来たファンに花束をもらった倪夏蓮。WTTフィーダー優勝直後

 

「年齢のことはいつも忘れている。

いつでもベストを尽くすことが

私の生き方なの」

 

 

74日に60歳の還暦を迎えたルクセンブルクの倪夏蓮。世界の卓球界の中で異彩を放つペン粒高(*)攻撃プレーヤー。

中国の上海で生まれ、14歳で上海代表チームにスカウトされ、16歳の時に国家チームに入った。左ペン表ソフト速攻スタイルで、中国選手権で2位までいったが世界選手権の代表を勝ち取るために粒高に用具を変更。しかも、守備的な粒高選手ではなく、攻撃的な異質攻守型として中国代表として1983年世界選手権で団体・混合複の2個の金メダルを獲得した。

1989年にドイツ、翌年ルクセンブルクに移り、ヨーロッパ選手権で優勝するなど活躍。2021年の東京五輪で5回目の五輪を経験し、五輪後の世界選手権ヒューストン大会では女子ダブルスでメダリストとなった。もちろん史上最高齢のメダリストだ。

そして還暦の祝杯をあげるがごとく、WTTフィーダー・ハビジョフ(チェコ)で中国の若手を3人倒し、優勝を飾った。

「これは私にとって初めてのWTTのタイトルです。 私の最後の世界イベントでのタイトルは20年か30年前だったかしら。昨年オロモウツ(チェコ)のWTTで決勝を逃した自分の失敗から多くを学びました。

チェコは私のお気に入りの場所です。 私は調子が良くて、本当に良いプレーができました。 今年は、 私のファンがはるばるアメリカからハビジョフに来てくれて、大きな花束をもらったのが信じられません。

私には世界中に多くのファンがいます、そしてそれが私のモチベーションです、私は単なるプレーヤーであり、おばあちゃんです。 ファンが私のゲームを楽しんでくれてとてもうれしいです。彼らはすべてのポジティブなエネルギーを私に与えてくれます。

決勝では2‐03ゲーム目4‐1でリードしていましたが、 集中力が切れてこのゲームを落としてしまいましたが、立て直すことができました。まだ学ぶことができますね」

卓球王国では倪夏蓮と漢字名で表記している。選手名表記に厳格な決まり事があるわけではない。1983年の世界選手権東京大会でダブルスのタイトルを獲得し、その前後の日中交歓卓球大会でも来日している時から当然漢字表記だったためにそれを踏襲している。

それ以外の、たとえば、ハン・インやシャン・シャオナのように中国時代に国家代表で活躍していない選手が、その後海外にわたり、その国の代表で出るようになった場合はカタカナ表記にしている。

倪夏蓮は音読みで言えばゲイ・カレン。中国の発音に近い形で、ニ・シアリエン(漢字のルビ)と卓球王国では表記する。今回、2022年3月号で紹介した倪夏蓮のインタビューを紹介しよう。

*粒高とは、粒の長い表ラバー。粒がすぐに曲がるために相手の回転を利用して、変化ボールを繰り出すことができる。守備的なラバーではあるけれど、倪夏蓮はこのラバーで攻撃をすることもできるし、裏面には回転のかかる裏ソフトではなく、速攻タイプの表ソフトラバーを貼り、反転させながら変化+速攻スタイルを確立させている

 

WTTフィーダー・ハビジョフで優勝を決め、ベンチに入った夫のトミー・ダニエルソンとハイタッチ

 

中国2位になった後に

ソフトから粒高に変えた

「もしダメだったら、

私の卓球人生は終わりになる」

 

●─あなたは中国代表として初めて出た1983年の世界選手権東京大会で女子団体と混合ダブルスで優勝。 

倪夏蓮(ニ・シアリエン/以下:倪) 上海で生まれ育ち、14歳の時に上海の代表チーム、 1979年、16歳の時に中国の国家チームに入り、83年東京大会が初めての世界選手権でした。85年世界選手権イエテボリ大会にも出て、女子ダブルスで準優勝、混合ダブルスで3位だったけど、中国では優勝しなければ成功したとは言えないわね。

 

●─いつから粒高ラバーを使い始めたのですか?

 79年に国家チームに入った時は表ソフトの速攻型でした。そのプレースタイルで全中国選手権で2位になったけど、首脳陣は私の力はまだ十分でないと思っていた。81年の世界選手権ノビサド大会にも出場するチャンスがあったけど、出られなくて、私はがっかりしたんです。担当コーチではなかったけど国家チームのコーチだった周蘭孫が、アドバイスをくれました。私の速すぎる卓球を少しスローダウンさせるために「粒高を使うのはどうだろう」と言ってくれました。

 でも、それをやってもし失敗したら、私の選手としてのキャリアが終わるから、誰も決められずに最後は私自身が決断し、82年に変えたんです。粒高に変えてから3カ月後の大会では成績も良くなくて、私は迷っていた。その時に孫梅英コーチが私のところに来た。彼女はとても親切で、正直な人でした。「倪夏蓮、何を焦ってるの? まだ3カ月しか経っていない。多くを期待したらダメでしょ。もう少し時間がかかるんだから」と諭してくれました。私は新しいスタイルで成績を残せなければ国家チームから外され、私の卓球人生も終わると思い、焦っていたので孫コーチの言葉に救われたんです。

 

●─1979年世界選手権平壌大会では、同じ粒高の葛新愛(中国)が優勝しているけど、彼女は守備型だった。あなたとはプレースタイルが違いますね。

 それはとても良い質問ですね。国際卓球連盟には「倪夏蓮、あなたは世界卓球史上、粒高を使った初めての攻撃選手ですね」と言われた。もともと葛新愛は9歳の時から粒高を使っていたし、守備選手だったけれど、私はもともと表ソフト速攻型だった。基本的な技術が全く違う。粒高での攻撃スタイルというのは、基本的な技術がなかったらできないのよ。

 

「ルクセンブルクでは

プロ選手は無理なの。

小さい国だから

プロの卓球選手はいない」

 

●─1985年の世界選手権に出たあとに、89年にドイツに行きましたね。

 85年の世界選手権のあと、86年2月に国家チームを離れ、勉強と卓球のために上海交通大学に入りました。まだ22歳だったけど、将来のことを考えていました。国家チームでも複雑な問題があり、国家チームを離れることはうれしかった。私は大学で勉強しながら、上海チームのコーチもしていました。世界で優勝した人というのは、ある程度自分の好きな道を選ぶことができる。私は将来、子どもたちを教えるコーチになりたかったんです。

 

●─なぜ、そんなあなたがドイツに行ったんですか?

 その頃の中国は開放され、海外に行く人が多かった。特に日本に行く卓球選手は多くて、私も日本行きを考えたけど、最終的にはドイツに行くことを選びました。

 

●─3、4年間くらいドイツにいて、中国に戻るつもりだったのでは?

 そうそう。私はひとりじゃなくて前の夫と一緒にドイツに来たので、両親もあまり心配していなかった。私は言葉もわからず、ドイツの生活も文化も、何もわからなかった。ドイツに行った時には2部リーグのチームに入って全試合に勝ったので、いくつかの1部のチームやルクセンブルクの協会からもオファーをもらい、最終的には90年6月にルクセンブルクに移り、ナショナルチームとクラブチームで活動するようになりました。ルクセンブルクのリーグ戦では男子チームに入ってプレーしたけど負けなかったわよ(笑)。

 ルクセンブルクではプロ選手としての生活は無理なのよ。小さい国だからプロの卓球選手はいない。94年にコーチのトミー(・ダニエルソン)と知り合い、その後に結婚するけど、私たちは不動産の仕事をしていて、ホテルをひとつ買い、それを貸したりしている。私は卓球選手だけで暮らしているわけじゃないのよ。でも、練習する時間もあるし、今は90歳の母も一緒に暮らし、29歳と18歳の子どももいます。 

 

●─ルクセンブルクに移ってからのあなたの卓球へのモチベーションとは何でしょう?

 最初の頃は、協会と契約して、選手として、そしてコーチとしての責任感がモチベーションだったわね。94年に協会はオリンピックに出るように打診してきたけど、私は断ったの。私はクラブチームとともに生活していて、彼らは私の生活や前の夫の仕事も探してくれたし、私はクラブでコーチもしていた。当時、クラブは私がナショナルチームに行くのではなく、チームにいてほしいと願っていたし、私も恩返しをしたかった。その頃はオリンピックに出なくても良いと思っていました。

 その後、98年に私はルクセンブルク代表として大会で結果を残して、世界ランキングも4位まで上がり、初めてオリンピックに行くことになりました。クラブも気持ちよく送り出してくれた。2000年シドニー五輪が初めてのオリンピックで興奮したけど、ホームシックで、終わってすぐにルクセンブルクに戻ったのよ(笑)。

 2004年の時にも私は世界ランキング8位だったのでオリンピックに出場できる資格はあったけど、出ませんでした。その1年前に2人目の子どもを出産していたので、02年4月のヨーロッパ選手権後から07年まで選手生活はストップしていたんです。でも、08年の北京五輪は特別だった。私は国家チームの時に北京に6年間いたので、北京五輪に出たいと思いました。

 08年の北京五輪のあとに、再び卓球をストップしたけど、10年頃から協会の人が何度か家に来てロンドン五輪に出てくれないかと打診され、「みんながそれでハッピーになるなら、わかったわ」とOKしたんです。ロンドンの時には49歳でした。協会は「あなたならできる」と言い続けたけど、本当は「年齢的にもう無理よ」と思っていましたよ(笑)。

 

●─夫のトミーはどういう存在だろう?

 彼とは94年から選手とコーチの関係でした。結婚して20年かな。私は本当に愛すべき夫(現夫・トミー)に感謝している。私は世界で一番のサポーターを持っている、それがトミーよ。 娘は18歳、高校生で、最初の夫との子どもは29歳になっています。もうすぐ私もおばあちゃんね(笑)。(現在は孫も生まれ、おばあちゃんになっています)

 私は普通の人よりも家庭的な人間なのよ。両親の世話もするし、夫や子どもの世話もする。子どもが生まれたら、親としての責任もある。それと卓球選手を両立させるのは簡単なことじゃない。家庭を犠牲にして卓球はできないでしょ。

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