1983年に誕生し、
全国でも屈指のプレー環境を誇るバタフライ卓球道場。
卓球人なら知らぬ者はいない卓球の「聖地」が、
今新たに生まれ変わった。
リニューアルされた施設に込めた思いと、変わらぬ情熱。
バタフライ卓球道場の原点と未来を探ろう。
東京都杉並区阿佐谷南1丁目7番1号。
切れ目なく車が走り続ける青梅街道沿いに、卓球人にとって特別な場所がある。『バタフライ』ブランドで知られる、株式会社タマス本社ビルに隣接するバタフライ卓球道場。
そこは頂点を目指す者たちの鍛錬の場である。そして、世界中から集う若者たちの国際交流の場でもある。卓球を愛する老若男女の笑顔と汗が交錯し、卓球というスポーツのメディアへの発信地にもなる。
つまり、「白球の聖地」だ。
地下2階・地上2階、フロアに立って見上げると天井が高い。住宅街の真ん中に作られた、純粋に卓球というスポーツのためだけの空間だ。
「やっぱり道場には特別感がありましたね。行けるだけでワクワクしました。小学生の頃に何度か合宿をさせてもらったんですけど、広い畳の部屋にみんなで寝て、昔の大会のビデオをみんなで見たりして、本当に楽しかったですね」
2016年リオデジャネイロ五輪の男子団体銀メダリスト、吉村真晴(愛知ダイハツ)はバタフライ卓球道場の思い出をそう語る。幾多のチャンピオンたちが汗と涙を流したその場所は、やんちゃな卓球少年にとっても刺激的な場所だった。
「昔の道場は、フロアに下りていく階段に世界チャンピオンの写真がたくさん飾ってあった。『ぼくもこういうふうになりたいな』と思って、自分に対して『もっと、もっと』というモチベーションになって、それが今の自分につながっている。
レベルは様々でも、道場では多くのトップ選手がフロアに立った『空気感』を感じてもらいたい。そうすれば、ぼくと同じように自分の夢や目標につながっていくと思います」(吉村)
2018年から改修工事が行われ、施設が全面的にリニューアルされたバタフライ卓球道場。真新しいエントランスに足を踏み入れれば、その門をくぐる卓球人を見守るような「努力」の文字が目に飛び込んでくる。
この二文字をしたためた人物は、株式会社タマスの創業者であり、バタフライ卓球道場を設立した田舛彦介。『バタフライ』ブランドの生みの親である田舛がバタフライ卓球道場をオープンさせたのは、1983年4月26日のことだった。
第37回世界卓球選手権東京大会の開幕を2日後に控え、オープニングセレモニーにはITTF(国際卓球連盟)第2代会長のロイ・エバンスをはじめ、各国・地域の卓球協会会長ら約350名が出席。当時バタフライの社員だった伊藤繁雄(1969年世界チャンピオン)の豪快なスマッシュ、長谷川信彦(故人・1967年世界チャンピオン)の華麗なロビングが喝采を浴びた。
バタフライ卓球道場は住宅街にあるため、高い建物は建てられない。そこで田舛は地下を掘って地下2階にフロアを作り、トップ選手でもプレーできる天井の高さを確保した。フロアは強固に作られ、選手たちが強く踏み込んでも振動でブレることがない。なおかつ地下にあるため、中でどれだけ激しい練習が行われていても建物の外に出れば驚くほど静かで、騒音が問題になることもない。
卓球というスポーツに理想的な環境を作るため、田舛は総工費12億円という巨費を投じながら、バタフライ卓球道場の使用料などはすべて無料とした。会社の経営規模を考えれば、それはあまりに「非常識」な決断だった。
「選手を花にたとえるならば、私たちはその花に仕える蝶でありたい」
卓球というスポーツに限りない情熱を注ぎ、自らのブランドに『バタフライ』と名付けた田舛は、バタフライ卓球道場を「好きな卓球が、好きなだけできる」場所であれと願った。
ツイート