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インタビュー

【People】子どもたちと理解し合い、互いに達成感を味わう – 佐藤和恵

 北海道苫小牧市の市街地から20kmほど国道を走った場所にある安平町(あびらちょう)。国道から少し中に入り砂利道を進むと、そこに一戸建ての卓球場が現れる。卓球台が3台置かれた佐藤卓球場には、夕方になると学校帰りの小中学生が集まり、汗を流す。指導するのは佐藤和恵、79歳だ。

卓球台3台を置くメインのフロアの他、宿泊部屋や休憩室なども備える佐藤卓球場

 来年1月に傘寿を迎えるとは思えないほどよくしゃべり、よく笑う佐藤。子どもたちと時に戯れ、時に鋭いアドバイスを送る。指導を始めて42年になる。

 1943年、早来町(はやきたちょう/現・安平町)で生まれた佐藤。日本が世界の卓球界を席巻し、卓球ブームに沸いた1950年代に、中学と高校で卓球部に所属した。24歳で結婚して子どもが生まれてからは卓球から遠のいたが、もともと卓球は大好きだった彼女は、子どもが10歳くらいになった頃から、卓球を再開していた。そして1980年、中学校の美術教師だった夫が卓球部の顧問となったことをきっかけに、部活で指導を始めた。「今のように外部コーチ制度がなかった時代で、部外者の私がよく教えさせてもらえたと思います」(佐藤)。部活での指導は13年間続いたが、それと並行して、苫小牧市卓球連盟の活動としても16年間、地元の子どもたちを指導。そして連盟内での話し合いの中で「クラブチームとして分かれて活動したほうが良いだろう」という結論になり、苫小牧ジュニア、菊卓会など、指導者ごとに地域のクラブとしての活動が始まった。

 佐藤はハスカップジュニアというチームで約3年の指導を歴て、2000年1月に現在の卓球場をオープン。卓球場は、佐藤の生家の敷地内に建設した。「夫の退職金を半分あてにしながら、いとこの工務店にお願いして建てました。私はやると言ったら人の言うことを聞かずにやってしまう。地元出身の橋本聖子が7回五輪に行ったけど、全部応援に行きました。家も子どものことも考えずに、サラエボに1カ月行ったんですよ(笑)。やりたいと思ったらやれちゃうものです。卓球場建設もそうですね」(佐藤)。

佐藤(中央)とクラブのメンバー(もう1名は記事の最後の写真で登場)

 こうしてスタートした「佐藤クラブ」。現在、クラブには小学生2名、中学生5名が在籍。多い時期で20名近く在籍し、全国ホープスや個人戦などの全国大会には毎年のように選手を送り込んできた。明徳義塾中・高を経て明治大では主将を務め、今年、日本リーグ1部新人賞を獲得した西康洋(日野キングフィッシャーズ)も、佐藤の教え子のひとりだ。

 「姉と兄の影響で3~4歳から佐藤先生のところで卓球を始め、小学6年まで私が育った場所です。佐藤先生は私にとって、卓球の指導だけでなく人格形成をしていただいた方。どんな人にも熱心に教えてくださる方です。否定をしないタイプで、卓球に関しては怒られたことが一度もないですね。試合中のアドバイスもポジティブなことばかりだった。負けた後も『西ならもっと良い試合ができたよ』と声をかけられたので、負けても『次は頑張ろう』と思えた。私が間違ったことをした時も、頭ごなしに怒るのではなく、『それで良いと思うならそうしていたら?』などと言われ、自然に反省できた。今思えば、子どもがやる気を出すような言葉を選んでくださっていたのだと思います」(西)。

小学生時代の西康洋(後列左から3番目)が在籍していた当時の佐藤クラブ。中列右端が佐藤、その左は高山結女子(札幌大谷高→日本大)

 佐藤は西についてこう語る。「西はやんちゃな子でしたね。小学6年で全道チャンプになって、西が目当てで卓球場に来る子もいました。センスがあっただけでなく、調子が悪い時には『チェックしてください』と自分から言ってくるような熱心さがあった。もう少し冷静に試合ができたら全国トップでも勝てるんですけどね(笑)。中学から明徳義塾に進んだように、強い意志があったから強くなれたんだと思います。今年は社会人になって活躍していて、うれしいですね」(佐藤)。

 西の言うように、佐藤は試合中のアドバイスでは『大丈夫、大丈夫』とポジティブな言葉をかけていることを意識している。「怒っても何もできない。いかに練習通りにやれるかですね。試合では、どちらの選手も舞い上がっているような中で、1本で勝ち負けが決まる。冷静に見て、何かアドバイスが言えないとベンチはいらないですよね」(佐藤)

ゲーム練習が盛んに行われる。奥は佐藤が中学校卓球部を指導していた時の教え子である三橋さん。OB・OGが指導の手伝いをしたり、その子どもが佐藤クラブに入ることも多い

 ポジティブな言葉がけとともに、佐藤の指導のポイントとなっているのはコース取りと長短だ。卓球台の上に番号を振り、「何番に打てば、何番に返ってきやすい」と、小学生にも分かりやすく教える。「指導は自己流ですが、結果は出ているので、悪くはなかったんでしょう。天性のセンスのある子は黙っていてもボールを入れられる。むしろ運動神経がない子のほうが、私は教えられるかな。どんくさくても積み重ねができる子は強くなります。私は『勝つ』ということを考えていない。過程があった上での結果だと考えているので。今日より明日、少しうまくなっていれば良いと思うんです」(佐藤)。

 部活指導時代は、60人程を相手に怒鳴りながら厳しく指導していたという佐藤。「朝練で1時間サービス練習をさせたり、厳しくやっていた。当時の教え子に聞くと『おっかなかった』って言われます。私は覚えていないんですけどね(笑)。当時は『教える』という意識が強かった。でも今は、いかに互いに理解し合えるかが大切だと思っている。子どもがどう理解して取り入れてくれるのかを考えています。子どもたちと、互いに達成感を味わえるのが良いですね。やっていて良かったと思えます」(佐藤)。

 

 実は佐藤は、15年に指導を後継者に譲って「勇退式」も開かれたが、後継者が仕事と指導の両立で体調を崩したため、1年で復帰したという経緯がある。「今は卓球の技術が凄く高くなり、大変な時代に突入した。こうなると勝つための世界を分けて作る必要がある。私には上のレベルの技術を教えるのは難しいし、勝ち負け以上に人とのやりとりを大切にするほうが好きですね」(佐藤)。

 「大会に顔を出すと『まだやっていたんですか』と皆に言われる」と笑う佐藤。あと1年程で指導から退く予定とのことだが、佐藤はまだまだ元気だ。実家の隣にある卓球場にちょくちょく顔を出し、子どもたちに温かく接する日々は、これからも続くことだろう。

(文中敬称略)

 

佐藤和恵 さとう・かずえ
1943年1月28日生まれ、北海道勇払郡出身。中学・高校時代に卓球部所属。1980年から中学校卓球部の指導を開始し、苫小牧市卓球連盟の活動としても子どもたちを指導。2000年に卓球場を建て、「佐藤クラブ」をスタート。毎年のように全国大会に選手を送り続けている

父兄やお手伝いのコーチも含めて和気あいあいとした雰囲気の佐藤クラブ

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