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インタビュー

【PEOPLE】「仕事をしていたら卓球が伸びないだなんて、そんな決まりはないんです」 保田晃宏

昨年の全日本実業団選手権で初優勝を遂げたクローバー歯科カスピッズ(大阪)。チームの総監督である保田晃宏は、大阪に5つの歯科医院を持つ『医療法人クローバー』の理事長を務める。

エースの松下大星を始め、選手全員が保田の歯科医院で仕事を終えてから練習しているが、社会人になってからメキメキと力をつけている。異色のチームを率いる保田の素顔と、クローバー歯科カスピッズの活躍の秘密を聞く。

 

大阪の八尾市にあるデンタルオフィス クローバー

 

●保田さんと卓球との出合いを教えていただけますか。

保田晃宏(以下・保田):中学時代は卓球とは違うスポーツをしていたのですが、3年の時に大きな怪我をしてできなくなりました。クラスに卓球をしている友人がいて、ゴールデンウィーク明けくらいに遊びでラケットを振ってみたんです。それが卓球との最初の出合いでした。ペンでやっていたんですが、シェークでカットを真似してみたら「おまえ、結構回転かかってるぞ」と言ってもらって。それがすごくうれしかったのを覚えています。それが縁で卓球部に入れてもらいましたが、高校受験を控えていたこともあり在籍期間は1カ月だけでした。

本格的に卓球をやり始めたのは奈良県立富雄高校(現在は奈良北高に統合)に入学後、卓球部に入ってからです。高校では勉強をしないで卓球ばかりしていました。ただ、男子の先輩は卓球よりも麻雀を教えてくれるような人たちばかりで(笑)。女子は近畿大会に出場する先輩もいる強いチームでしたが、ぼくも含めてみんなが独学で練習していました。

ぼくの戦型はカットマンなんですが、選んだ理由が実に素人的な発想だったんです。高校入学後すぐの大会で他校のカットマンが簡単に勝っていたのを見て、「あれはいいな」と思ってカットマンになりました。今思えばカットマンというスタイルが強いのではなくて、その方が強かっただけなんですよね。そんなこともわからないようなレベルでした(笑)。

高校時代は本当に卓球に明け暮れて、最高成績は県大会のシングルスでベスト32でした。ベスト16決定戦からは私とは別次元の強さの選手ばかりで「ああ、俺とはレベルが違うな」と感じましたね。

 

●大学は大阪大学歯学部に進学されています。

保田:はっきりと覚えているんですが、高校3年の8月25日に父親に「スコップを買ってやろうか」と言われたんです。卓球ばかりでまったく勉強していなかったので大学進学なんてほど遠く、高校卒業後は体力勝負の仕事に就けという意味が込められていたんだと思います。そこから自分の将来のことを真剣に考えるようになり、歯科医になりたいと思ったんです。

夏休み明けの9月に担任の先生から「将来はどうするんだ?」と聞かれた時に「日本一難しい歯学部に入りたい」と答えたんです。そうしたら「夢みたいなことを言うな。現実的に将来を見ろ」と言われた。それが悔しくてね。何年かけても絶対に行ってやろうと逆に燃えました(笑)。当時のぼくの高校の偏差値は49で、勉強もまったくしていなかったから先生がそう言ったことも今で考えれば理解できます。本当に夢みたいなことを言っていたんだな、と。

そこから大学受験に向けて猛勉強を始めました。うちはお金がないから私立の歯学部には行けません。国公立大学でも地方だと下宿代がかかるから無理。奈良の自宅から通える国公立大学の歯学部しか選択肢はなく、その中で一番難しいのが阪大歯学部(大阪大学歯学部)だったので、そこを目指すことを決めました。そこから私は「日本一」という言葉が好きになりました。

当時の私の学力はセンター試験の4択で47点。先生から「猿でも50点取れるぞ、おまえすごいな(笑)」と言われました(笑)。ちなみに英語の偏差値は27でした。

 

現役では不合格でそこから浪人生活が始まり、阪大歯学部しか行くつもりがないので1日13時間の勉強を課しました。正直、ぼくの学力では1年間の浪人生活でも合格は無理だとわかっていて、2~3年かけても行ってやろうと思っていました。それからは卓球のラケットは1度も握らず、テレビ、ゲーム、漫画も見ない。デートもしない毎日になりました。

夢を達成するためには普通のことをしていても叶いません。偏差値70の子と同じことをしてもぼくでは叶わない。2浪して偏差値を70まで上げましたが、受験当日の試験に失敗したこともあり、阪大歯学部は受かりませんでした。歯学部を諦めたわけではないのですが、翌年に阪大歯学部と合わせて大阪教育大学も受けて、歯学部はだめでしたが教育大は受かりました。人を教える教師という仕事も良いかなと思って受験して、受かったので教育大に進学しました。

しかし、入学して2カ月で辞めてしまいました。入ってみたら「これは違うな。自分には教師は向いていない」と感じて、親にだまって退学したんです。生活するためにはお金が必要なので、「大阪教育大中退」という意味のわからない履歴書を持って学習塾に応募したら採用してくれて、そこで高校受験を控えた中学生の塾講師としてアルバイトを始めました。担当する子たちの成績が上がって、塾の経営者から「保田君は教え方も話し方もうまいから向いている」と言っていただいていました。

子どもたちが受験を目指して頑張っている姿を見て、自分の中に「もう一度、阪大歯学部を目指してみよう」という思いが湧いてきました。予備校に通うためにお金が必要になったので、銀行で120万円を借りて予備校に通い始めました。午前中は予備校で勉強して、午後に別のアルバイトをして、夕方から塾のアルバイトを終えて、夜の12時まで雀荘でアルバイト、それから部屋で午前4時まで勉強という生活をして、翌年春に阪大歯学部に合格しました。この間に意志力の大切さを学びました。

ちなみに阪大に受かった年には早稲田大学と同志社大学も受けて2校とも受かりました。お金がないのでどちらの大学にも行けないのはわかっていたのですが、これで阪大に落ちたら歯学部はきっぱりと諦めて、「早稲田と同志社を受かったけどどちらも行かなかった予備校講師」というフレーズで売り込もうと考えていました(笑)。

 

 

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