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【卓球競技5月5日開幕】引退から復帰、結婚に出産…まだまだ挑む4度目のデフリンピック。佐藤でも、亀澤でも、ママでもメダルへ

 4年に一度開催される、ろう者(聴覚障碍者)の世界最高峰の総合スポーツ大会・デフリンピックが5月1日(現地時間)にブラジル・カシアスドスルで開幕。5月5日からスタートする卓球競技には、日本から男女4名ずつが出場。男女団体・シングルス・ダブルス、混合ダブルスの7種目でメダル獲得を目指す。

 卓球競技の女子主将を務めるのは、今回が4度目のデフリンピック出場となる亀澤理穂(旧姓・佐藤)。大会開幕に先立ち、デフリンピックに魅せられた亀澤の卓球人生を紹介する。(初出:卓球王国2017年12月号「Another Story 33」・本文中の所属や肩書き、年齢はすべて当時)

 インタビューを行ったのは、前回のデフリンピックが終了した直後の2017年9月。その際、これからの目標を「次は夫婦でデフリンピックに出たいし、子どもができたら、私が頑張っている姿を見せたい」と語っていた。今大会は夫の亀澤史憲と夫婦での出場を叶え、前回のデフリンピックの後には第一子を出産。「佐藤でも、亀澤でもメダル」を果たした彼女が挑むのは、「ママでもメダル」だ。

〈文・浅野敬純〉

 

●卓球一家に生まれた少女が抱いたデフリンピック出場の夢

 「夏休みと有給ほとんど使って、トルコに2週間行ったんで、今年はもう休めないんですよ」。そう言って、26歳のOLはケラケラと笑う。とにかく明るく、笑顔の絶えない彼女の名前は亀澤理穂。昨年末に入籍し、姓が佐藤から亀澤に変わった。トルコに2週間行った理由は新婚旅行ではなく「戦い」。彼女はこの夏、トルコ・サムスンで開催された、ろうあ者(聴覚障がい者)スポーツの祭典・デフリンピックで2つのメダルを獲得したアスリートでもある。

 現在、協和発酵キリン卓球部の監督を務める佐藤真二の長女として生まれた理穂。彼女は先天性の聴覚障がいを持っていた。そんな理穂が卓球を始めたのは小学4年生の時。3つ年上の兄が卓球を始めたことがきっかけで、東京・武蔵野市にあった卓球場「平沼園」に通うようになる。当時、平沼園は明治大卓球部の練習場でもあり、日本トップの学生たちが練習する横で、小学生の理穂はボールを追いかけた。

 「もともと水泳をやっていたんですが、兄と同じことをするのが好きで、私も卓球をやりたいと思うようになりました。両親が卓球をしていた卓球一家ですけど、やらされて始めたわけではなくて、自分でやりたいと思って卓球を始めた。家でも卓球の話はほとんどしなかったし、父は聞いたら教えてくれるけど、卓球に関してあれこれ言われたことはそんなにない。父からしたら、本当はもっと聞いてきてほしかったのかもしれないですけど(笑)。でも、そういう環境だったから、今も卓球を続けているのかもしれないです」

 卓球を始めて最初のうちはミスばかりだったが、ラリーが続くようになってからは、どんどん卓球が楽しくなっていった。隣で練習している明治大の選手たちに遊んでもらったり、可愛がってもらったことも、卓球を始めた頃の思い出だという。

 その後、理穂は地元の公立中学校に入学。しかし、中学1年の時に転機が訪れる。1997、2001年と2大会連続でデフリンピック女子シングルスで金メダルを獲得した小浜京子の講演を聴く機会があり、初めてデフリンピックの存在を知った。そしてこのことが、後の理穂の人生を大きく変えることとなる。

 講演を聴き、「デフリンピックに出る」という夢を持った理穂は、より良い環境を求めて、強豪の淑徳学園中・高(現 淑徳SC)への転校を決める。当時を「卓球しかやってない」と振り返り、健常者に混じって練習に励み、中学では全中団体戦、高校では高校選抜に出場するまで実力をつけていく。全国では思うような成績を残せなかったが、夢中になって卓球をしていた理穂にとっては、全国大会に出られるだけでうれしかった。休みなく練習する日々の中で、チームメイトと練習帰りに寄り道をしたり、たまに与えられるオフの日に遊びに行くことが唯一の息抜き。卓球漬けの10代を過ごした。

 

●夢を追って飛び込んだ東京富士大。初のデフリンピックと父娘での世界一

 高校を卒業した理穂は、名将・西村卓二監督率いる東京富士大に進学。日本でも1、2を争う厳しさで知られる環境に飛び込む決め手となったのは、やはりデフリンピックへの憧れだった。また、東京富士大には一学年上に、同じろうあ者の上田萌がいたことも大きい。

 「他の大学も考えましたが、デフリンピックでメダルを獲るなら厳しい環境でやるしかないと思って東京富士大に決めました。あとは上田さんと一緒にやりたい気持ちがあったのも理由のひとつです。上田さんが1年先に東京富士大に入っていたので、まわりのみんなも障がいのある私が困らないように気遣ってくれたし、ミーティングなどでもフォローしてくれた。そういう意味でも、上田さんの存在は大きかったです」

 後に日本代表として、ともに世界で戦う理穂と上田だが、理穂が卓球を始める前に2人は出会っている。父・真二の知り合いが指導するクラブに、ろうあの選手がいると聞き、理穂は京都まで会いに行った。その選手が上田だった。その後、理穂も卓球を始め、大学で先輩・後輩となり、デフリンピックでダブルスを組んでメダルを獲得。そして、上田の弟である仁が、真二が指揮を執る協和発酵キリンでプレーしているのも何かの縁だろう。

 強い意志を持って入学した東京富士大だったが、そこでの日々は予想以上に厳しかった。高校までは長くても3時間ほどの練習だったが、大学では朝から晩までひたすら練習。「こんなに練習してるのに強くなれない」と思い悩む時もあれば、練習から逃げ出したい日もあった。しかし、体力的にも精神的にもつらい時、仲間の姿が支えになった。

 「東京富士大は一人ひとり意識が高くて、全員でひとつの目標に向かって努力するチームでした。だから私だけ苦しいわけじゃないと思えたし、乗り越えることができた。厳しい練習の中でもサプライズで誕生日を祝ったり、ご飯を食べに行ったり、楽しい思い出がたくさんあって、本当に良い4年間だったなと思います」

 理穂自身、関東学生リーグには4年間一度も出場することはできなかったが、チーム全員で声を枯らして戦ったことは、理穂の卓球人生の中でも、忘れられない試合として残っている。

 東京富士大という厳しい環境の中で、理穂は着実に力をつけ、逞しくなっていく。2009年、東京富士大1年の時、理穂は念願だったデフリンピックに出場し、シングルスで銅メダル、団体で銀メダルを獲得。初出場で2つのメダルを獲ったことで、デフリンピックは「夢」から、もっと良い色のメダルを獲るという「目標」に変わった。

 東京富士大4年時の2012年には、東京で世界ろう者選手権が開催され、団体戦で日本に初優勝をもたらした。当時ろうあ者日本代表の監督を務めていた父・真二とともに戦った理穂は、決勝の中国戦5番でフルゲームで勝利。父娘で世界一となった。

 「決勝の試合はどんなプレーをしたのか覚えていなくて、気がついたら優勝していた。父のあんなに喜ぶ顔を見たのは初めてだったので、本当にうれしかった」

2012年世界ろう者選手権団体決勝ラストで勝利

監督を務めた父・真二(中央と)

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