それは高木和卓(たかきわ・たく)にとっても突然の知らせだった。
2月15日に公になった東京アート卓球部の休部。日本リーグでは歴代最多の26回、全日本選手権団体の部では歴代1位の15回、今年度も全日本団体、後期日本リーグ、JTTLファイナル4を制していた強豪チームだ。
15年間在籍し、「ミスター東京アート」とも言える高木和卓は呆然とした。
高木和は両親に連れられ、近所のスポーツセンターで6歳から始めた卓球を27年間続けている。小学生時代に全日本カブ優勝、ホープス2位の成績で、進んだのは青森山田中。
順調に強くなり、青森山田高1年の時に全日本選手権でベスト8に入り、17歳、高校2年でドイツに渡った。すでに坂本竜介、岸川聖也、水谷隼がドイツのデュッセルドルフで練習していた。ドイツでは5シーズン、ブンデスリーガ1部と2部で活躍した。
ある時期、高木和は日本男子の中心にいた。のちに若手が台頭し、国際大会への出場が減る中でも、ポーランドリーグに参戦しながら、東京アートのエースとして存在感を放っていた。
若い時の自分を高木和は振り返る。「ドイツに行った時も、日本に帰ってきてからも、ぼくは1歳上の岸川くんと1歳下の隼の背中を追いかけていました。それが自分が頑張るモチベーションになり、二人を追いかけることで強くなれた。正直、ドイツにいる時は隼と岸川君と近すぎて、彼らのすごさがわからなかったです」。
脂が乗っていた時期に、日本に戻ってきた高木和。当時、彼を見ていて「もっとドイツにいたら強くなるのに」と思ったものだ。
「5年ドイツにいたし、日本に帰りたかったですね。東京アートに入る時、当時の社長(三木正市)との約束で、3年間はドイツに行かせてくださいとお願いして、ブンデスリーガ1部でもやれたので良かった。その後、日本に帰ってきてから練習時間も増えて、ドイツで経験を積んでいたので強くなれたんですね」
高木和の初めての世界選手権は2005年上海大会で、06年ブレーメン(団体)、07年ザグレブに出て、その後は2013年パリ大会に6年ぶりに出場。東京アートに入って全日本の表彰台にも上がった。2013年1月のオーストリアオープンで世界チャンピオンの張継科に勝った頃がピークだったと本人は言う。
ピークを過ぎてからの自分のモチベーションはどうやって維持したのだろう。
「自分ではわからないですね。目の前の土俵、今までだったら日本リーグや全日本だけを見ていて、目の前の試合に向かっていくことがモチベーションでした。最近は世界の舞台に出るというモチベーションではなかったし、遠くを見ずに1大会ごとに照準を合わせる感じでやってました。それにNTの練習では若い子も一生懸命練習をやるので、彼らから刺激をもらっていた。今のぼくは若い選手たちの後ろをついていく。相手が年下でも一生懸命やる。でもそれは悪いことではない」
ツイート