卓球王国 2021年9月21日 発売 vol.294
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変えて強くなる。 元世界チャンピオン・河野満

<卓球王国2011年9月号より>

1977年世界選手権バーミンガム大会で中国を倒し、世界チャンピオンになった河野満が語る「変えて強くなったとき」。

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シングルス決勝に初めて進出した1967年大会から10年、77年バーミンガム大会でついに頂点に立った河野

 

あなたの潜在力は眠っている

「変えて」強くなる

河野満

1977年世界チャンピオン

Mitsuru Kono

 

リスクを恐れずに

「変えた」人だけが

頂点に立てるのだ。

 

選手生活での最初の「チェンジ」は高校1年の時。もともとは表ソフトの速攻型だったのが、中学2年から3年にかけて、当時大流行したループドライブを打ちたくて、ラバーを裏ソフトに変えてドライブをかけていた。

ところが、青森商高に入学する時に遠征に帯同し、名電高、東山高、日大一高を訪れ、全敗だった。卓球部の相川光司先生と相談して、4月に表ソフトに戻した。裏ソフトといっても、回転をかけて攻めるスタイルではなかったので、今考えれば、もともとが表ソフトに適したスタイルだったのが、負けたことで目が覚めたのだと思う。

2回目の「チェンジ」は、大学1年の時。プレースタイルを「変えた」。

高校2年の時に全日本ジュニアで2位になり、全日本合宿に呼ばれた時に、荻村伊智朗さんにフォアだけでなくバックハンドを振ることをすすめられた。ところが、専修大学に入ってから、先輩であり、コーチだった野平孝雄さん(のちに全日本監督)と一緒に「1年間はオールフォアのスタイルに挑戦しよう」と話し合った。それは大きな挑戦だった。のちに荻村さんには「河野はあれで1年間遅れた」と言われたし、回り道だったのかもしれないが、今思えば、非常に正しい選択だった。

高校時代の後半には両ハンド攻撃スタイルで、いつでも両ハンドは振れた。ところが、オールフォアの卓球をやることによって、その後、プレースタイルの幅、戦術の幅が大きく広がったのだ。相手によっては、両ハンドで対抗する戦術をとったり、オールフォアで攻め込む卓球をしたりと作戦を変えることができた。

野平さんの考えの根底には、65年世界選手権リュブリアナ大会の高橋浩さんと荘則棟の試合の残像があったのではないか。この大会で、高橋さんは当時の世界チャンピオンである荘則棟を団体戦で破っていたが、個人戦のシングルスで対戦すると荘則棟は一転してオールフォアで攻め込み、勝っている。両ハンド速攻の荘則棟の恐るべき戦術転換と技術の幅に野平さんは目を見張った。

確かに、私がオールフォアの卓球を追求した1年間では、大きなタイトルを取れなかったが、その後の自分の卓球を考えれば、このオールフォアの1年間は貴重な体験であり、卓球の器を大きくするものだった。

私のプレースタイルは常に改革、改良の毎日だった。そのひとつとして、同じようなスイングから違う球種のボールを出せるようにした。つまり打球する時にわずかなラケット角度や体の使い方で、打球を上回転ボールにしたり、ナックルにしたりするのだ。それに打球点を早くしたり、遅くしたりすることも身につけた。バウンド直後のライジングで打ったり、頂点で打ったり、少し遅らせて打球することを意識した。

大学の頃からは意識して逆モーションプレーを使った。もともとはフォアストレート、バックストレートの攻撃は得意だったが、バックに打つと見せかけてフォアに打つ、フォアに打つと見せかけてバックへ打つ、ストップするように見せて台上強打する、打つと見せかけてストップするというように逆モーションを駆使した。選手時代の後半は、すべてのボールが逆モーションになっているような卓球だった。

大学時代に、世界選手権や全日本選手権でも優勝できずに、「河野は精神面が弱いから優勝できない」と言われたため、精神面での自己改革に努め、社会人2年目から座禅にも通った。若い時にはなかなか芽が出なかったし、大きなタイトルも取れなかった。それは精神面、技術面、戦術面において未熟で、完成するまで時間を要したということだ。