私の場合は幸いなことに、高校・大学・社会人と、相川光司先生、野平孝雄さん、そして荻村伊智朗さんという師に出会い、私は彼らを信頼し、アドバイスを聞き入れ、頑固なまでに実行した。師を信じるということは、自分が納得するということだ。納得しなくては練習もプレー改革もできない。絶対的な信頼を置き、自分が納得するからこそ、自分を変えることができる。私の場合は、それでもなお試行錯誤を繰り返し、29歳になってようやく完成した。
「チェンジ」ではないけれど、自分自身のキャリアの中で、大きなターニングポイントがあった。それは71年名古屋大会の時だ。67年大会ではシングルス2位、69年大会では団体戦全勝だったが、71年大会では「河野を団体戦に入れるべきかどうか」で協会の執行部やコーチ陣がもめた。一時は団体メンバーから外れた。最終的には団体メンバーに入ったのだが、この時に自分が本当に必要とされているのかと悩み、現役をここで終えて、大会後には海外にコーチに行こうかと真剣に考えたことがあった。結局は、現役引退を思いとどまったが、そこでラケットを置いていたら、当然その後の世界選手権優勝や全日本優勝はなかった。このままでは自分は終わるという危機感を持ち、常に変えていかなければ日本の中心でプレーすることができないと実感した瞬間だった。
同年代で世界を制した長谷川信彦、伊藤繁雄も「変えて」成功したチャンピオンだ。長谷川は、一本差しグリップという異質のスタイルを頑として変えなかった。その代わりに、技術と戦術を常に変え続けた選手だ。彼とは30数回、公式戦で対戦したが、毎回毎回戦術を変えられた。その戦術の幅と研究は誰も真似のできないものだった。
伊藤繁雄は、プレースタイルを変えた。大学に入った頃は、フットワークを使った普通のペンホルダードライブ型だったのが、そのフットワークの速さに磨きがかかり、ドライブだけだったのが、そのドライブを曲げて沈めるボールに変え、さらに同じようなフォームから横殴りのスマッシュを打てるように改良した。
二人とも、非常に個性的な卓球を作り上げ、世界の頂点に立った。歴代のチャンピオンを見ても、誰かの真似をしたような独自性のないスタイルの人はいない。みなが強烈な個性を持ち、他の選手が真似のできないスタイルを作り上げていることを歴史が証明している。
精神面・技術・戦術というのは、変えることで強くなっていくものだ。変えられない人、リスクを恐れる人は何もつかむことはできない。リスクを恐れずに「変えた」人だけが頂点に立てるのだ。
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河野満・こうのみつる[1977年世界チャンピオン]
1977年、第34回世界卓球選手権バーミンガム大会男子シングルス優勝。表ソフト両ハンド速攻型で「河野スタイル」と呼ばれるほどの独創的なプレーを見せ、欧州、中国勢を沈黙させた
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