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1971年、ピンポン外交のセンターコートにいたのは荘則棟だった

1971年、日本での交流を終え、羽田空港から中国に帰る荘則棟(手前)

 

「そんなことしちゃダメだよ」

「事を起こさないで、

相手をしないで」と

注意されました

 

1960年代から70年代にかけて、東西冷戦の中、国際政治は目まぐるしい展開を見せていた。文化大革命の真っ只中、中国はスポーツの国際舞台への参加を封印し、秘密のベールに覆い隠されていた。

中国卓球チームの世界選手権参加に、メディアは注目し、固唾(かたず)を飲みながらも「ビッグニュース」をじっと待っていた。71年名古屋大会で7種目中、4種目に優勝し、往年の片鱗を見せた中国だったが、この名古屋大会が、中国とアメリカを結びつけ、その後、世界の国際情勢を大きく左右する「ピンポン外交」のセンターコートとなった。

そして、そのセンターコートに立ち、ピンポン外交のためのサービスを出したのは荘則棟だったのである。

◇◇◇◇◇◇◇◇

1949年に中華人民共和国が建国してから、中国はソ連と友好的な関係を結んでいました。しかし、そのためにアメリカ合衆国は中国に対して敵視政策を敷き、その影響で中国と国交を結んでいる国が極めて少なかったのです。53年、ソ連のスターリンの死後、フルシチョフが書記長になってから、それまで友好的だった中国とソ連の関係は悪化し、摩擦が起き、ソ連から中国への195項目の人的援助が引きあげられることになりました。そのために中国の経済は大きな損失を被りました。

60年、ルーマニアの首都ブカレストでの会議で、ソ連共産党が中国共産党を批判。中ソ関係はどんどん悪化していきました。会議中にお互いの喧嘩のようなののしり合いが9回行われたと、当時の新聞に書かれました。

 

69年に珍宝島で中国とソ連の軍隊が衝突して、その時に毛沢東主席は、「我々の真の敵はアメリカではなく、北のソ連だ」と共産党員と全人民に訴えました。69年にニクソンが大統領に就任。アメリカといろいろ争っているのは中国ではなく実はソ連だということは、ニクソンも認識していました。アメリカは中国と仲良くしたいし、中国も同じ気持ちでしたが、きっかけがなかったのです。

中国とアメリカの関係は緊張はしていましたが、絶望的なものではなかった。70年、ワルシャワで、アメリカと中国の大使級会談が再開し、両国の関係は完全に封鎖されていないことを印象づけました。ただ外交的にはお互いが弱みを見せないし、お互いに接点を見つけられないまま70年12月に、毛沢東主席がアメリカ人ジャーナリスト、エドガー・スノー氏を北京に招待しました。天安門で毛沢東主席はスノーと会見したのですが、主席が期待したような効果はありませんでした。スノーはスイスに住んでいたし、親共産党派であったためにアメリカでの影響力はほとんどなかったのです

 

71年3月、世界選手権に出場するために中国チームが名古屋に行った際には日本側から手厚い接待を受けました。泊まるホテルも、移動のためのマイクロバスも専用のものを用意していただきました。泊まっているホテルから会場まではバスで約15分くらいの距離でした。ある日、私たちがバスに乗って練習場から体育館に移動する際に、急に外国人がバスに飛び込むように乗ってきました。

髪の毛の長い外国人でした。飛び乗った途端にまわりが全部中国人だったので、驚いてすぐに降りようとしたのですが、ドアが閉まってバスは走り出しました。本人はそこにしゃがんで10分間ほど、その姿勢で乗っていました。乗った時は外人ということしかわかりませんでしたが、降りようとして背中を向けた時に「USA」の文字が見えたのです。髪は長かったけど、男性でした。そして、アメリカ人ということでみんなが無視しながらも警戒していました。

考えてみてください。中国が49年に建国して、50年に朝鮮戦争が勃発して、「抗美援朝」という、つまりアメリカ(美国)に対抗し、朝鮮を支援するというのが、中国にとっての朝鮮戦争で、アメリカ帝国主義を打倒することが政治的に重要なことでした。だから、当時、アメリカ人と話をすることは考えられないことでした。

 

50年代から60年代まで、中国チームが外国へ遠征に行く際にはひとつの規定がありました。「アメリカの選手とは握手してはいけない、話をしてもいけない、お互いにプレゼントの交換もしてはいけない」という規定です。アメリカの選手とのあらゆる接触は一切禁止。中国選手の頭の中では、アメリカ選手と絶対交流をしてはいけない、という規定が根強く植え付けられていました。

ところが、今回の遠征の前に、周恩来総理からは「アメリカ選手と接触してはいけない」という話はありませんでした。周総理が友好第一と話をしていたので、私たちは政治が第一だと理解していました。

文化大革命では個々の立場を鮮明に守っていくこと、愛憎を鮮明にしていく点で鍛えられていった。だからバスに乗ってきたアメリカ人に対して誰も声をかけなかったのです。

 

私は一番後ろに座っていて、このアメリカ選手に声をかけようかどうか迷っていました。アメリカ人とは接触してはいけないという鉄の規律があって、しかも文化大革命の真っ只中でそんなことをしてもいいのだろうかと考えていました。文化大革命の時に、外国人と接触した人はスパイ扱いされて、悲惨な結末を迎えた人がたくさんいたのです。

逆に考えてみれば、周恩来総理から「友好第一、試合第二」という指示があったわけで、友好ということを考えれば、彼と話をしてもいいんじゃないかとも考えました。

ふだん会った時にこちらからアメリカ人に話をする必要もない。しかし、この日、こちらのバスに乗ってきた時に声もかけないのは、我々中国の五千年の歴史というのは一体何だろうと一瞬頭をよぎりました。

 

あと5分間で体育館に到着するという時に、私がアメリカ人のほうに向かって歩き出したら、「小荘、何をしようとしているの?」と声をかけられ、「あのアメリカ人と少し話をしてみよう」と言ったら、「そんなことしちゃダメだよ」「事を起こさないで、相手をしないで」と注意されました。でも私は「この人はアメリカの選手であって、政治の人じゃないからいいんじゃないですか」と言いました。

その時、私はいろいろなことを考えながら、バッグの中を探ってみました。当時、中国の人たちは貧しく、おみやげ、プレゼントというのはふつうの選手は持っていなくて、私たち主力選手だけが持っているものでした。バッグの中にあったおみやげは、毛沢東のバッジと、扇子と、大きめの杭州製錦織でした。

私は彼のところに近づいて握手をしました。私は彼に「アメリカ政府は中国にあまり友好的じゃないけれども、アメリカの人民とアメリカの選手は中国人民とは友だちですよ」と言いました。「アメリカ人民への友好的な気持ちを表すためにあなたにひとつプレゼントします。記念に持っていってください」と言って、錦織をあげました。アメリカ人におみやげを渡すのであれば、あまり政治的なものは良くない。あまり小さいものでも意味がないし、大きめのものをあげようということで杭州製錦織をあげたのです。その選手はコーワンという名前で、「中国選手が試合で良い成績をあげるように祈ってますよ」と言ってくれました。

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