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1971年、ピンポン外交のセンターコートにいたのは荘則棟だった

毛沢東主席は

「アメリカの卓球チームを中国に招待しよう」と

言い出しました

 

名古屋大会を前にして、1969年にニクソンが大統領に就任し、その後、中ソの武力衝突、70年の中米大使級会談再開と、アメリカ・ソ連・中国の3大国をめぐる国際情勢は大きく動き、丁々発止の外交のやりとりがあったことが、「ピンポン外交」の背景にはある。

小さな白球が、時に海を越え、政治を動かす。

名古屋大会の翌年の1972年にはニクソン大統領訪中、同年に日中国交正常化、79年に米中国交樹立という国際政治の流れの中で、ピンポン外交が果たした役割は大きい。もし名古屋大会をきっかけとしたピンポン外交がなければ……、もし荘則棟がバスの中でコーワンに話しかけなければ……歴史の歯車は微妙にその速度を変えただろう。

◇◇◇◇◇◇◇◇

バスが体育館に着くとそこには報道陣が待ち構え、カメラを向けられ写真を撮られ、翌日の新聞の一面にこの時の写真が載りました。「中米接近」という大きな見出しの下に、写真と文章が掲載されていました。

その日の夜、新聞を持ってきた副団長に「見てください。このことはかなり大げさになっていますよ」と言われました。私は副団長に「毛沢東主席はアメリカの政策を作る人と、ふつうの人民と区別して接触しなければいけないと言っていましたよね」と弁解すると、副団長も言葉を失いました。その時、彼は「ここまでだよ、ここまでだよ。荘則棟、あなたは卓球だけをしていればいいんだよ。政治的なことは私たちが何とかします」と言ってきました。

その時の幹部たちは私ととても仲が良く、団体戦の試合前に「小荘、あなたから見ると誰が試合に出れば一番いいだろう」と相談されるほど、信頼も厚かったのです。幹部たちに向かって私は答えました。「わかりました。これからは試合を一生懸命やります」。

 

私はコーワンと接触しないと決めましたが、彼からちょっかいを出してきました。次の日、錦織を持って、会場の中でそれを見せびらかすのです。そしてタイムテーブルを確認して、私の試合時間に合わせて会場で待ち受け、会って抱きしめられて、「まだ私のプレゼントを渡していないね」と言われながら、たくさんの写真を撮られたのです。

1回目は「中米接近」で、2回目は「礼尚往来」。つまりお礼のためにコーワンはやってきました。とても友好的な雰囲気で終わったのですが、次の日にアメリカ代表団のハリソン副団長が、中国代表団が宿泊していたホテルを訪れ、話をしたいと言ってきました。彼の口から「今回の世界選手権で我々はいい雰囲気で接触したので、ひとつお願いがあります。この大会後にアメリカチームを中国に招待していただけないか」という要望でした。これを聞いて、中国の代表団の幹部はとても驚きました。でも、ハリソンに「即答はできないので、いったん帰ってください。追って、連絡します」と答えました。

 

ハリソンが帰ったあとに、中国代表団の団長、副団長、秘書の人たちが相談しました。「今、アメリカチームが中国を訪問するには、機は熟していない」というのがひとつの意見でした。「これも全部、荘則棟がやったことだ。彼がいなければこういうことは起きていなかったはずでしょ」と言う人もいれば、「荘則棟は友好第一、試合第二という方針に従っているんじゃないか」と私の肩を持つ人もいました。また、「知らんぷりしよう、卓球だけをしよう」という意見を言う人もいました。

中国代表団の団長は趙正洪という人で、軍人でした。日本に駐在の中国連絡所の肖向前所長という人が趙団長に向かって、「今回の会見はふつうの会見ではなくて、これは重要な外交問題です。中国に報告しましょう」と言い、この人が中国への報告書を書きました。これは体育局(国家体育委員会)の範疇を超えて、外交ルートでの報告となりました。

 

ところが、その報告書を中国の外交部が受け取り、体育局に送ったのですが、「えっ、アメリカチームが中国に訪問したい? まだ時期じゃないだろ」と言って、引き出しに入れてしまったそうです。

アメリカが台湾の蒋介石を支持し、アジア卓球連盟で「ふたつの中国」を認める陰謀をしていたので、今、アメリカ選手団の訪中は無理、と外交部も判断しました。それを持って周恩来総理のもとに報告しました。

周総理も「アメリカの訪中を受け入れるのは無理」という報告書に同意しました。それから、アメリカ選手団の人で中国を訪問したい人がいたら、その人の名前と住所を控えて、あとで連絡ができるようにしましょう、という指示を出しました。そのあと周総理から毛沢東主席に報告しましたが、「わかった」と言って、この報告書を外交部に戻しました。そのままだったら、「ピンポン」と「外交」は一緒になることはありませんでした。

 

毛沢東主席が報告書を戻したあと、彼は眠るために大量の睡眠薬を飲みました。当時毛主席は白内障であまり目が見えなかったために報告書はまわりの人が主席に読むことになっていました。主席の側近に呉旭君という人がいて、睡眠薬を飲んだあとに主席はすぐに寝られないので、呉旭君が新聞を持ってきて、荘則棟とコーワンがどういうふうに接近し、接触したのかという記事を主席に読み上げたのです。

「アメリカ政府は中国に友好的ではない」という話を私がコーワンにしたという記事も含めて、細かい部分も主席に読んで聞かせました。その新聞を読み終わったあとに、主席は「さっきの報告書をすぐに持ってきなさい」と言いました。まわりの人が「主席、どうしたんですか?」と聞くと、主席は「アメリカの卓球チームを中国に招待しよう」と言い出しました。

しかし、側近たちはすぐには行動しませんでした。なぜかというと、日頃から毛沢東主席は自分でこう言ってました。「睡眠薬を飲んだ時の話はちゃんとした話ではないので、やらなくていい」と。だからまわりの人たちは動かなかった。いや、動けなかったのです。もし言われた通りにして、あとで「睡眠薬を飲んだ時の話は聞かなくていいと言ったのに、何でそんなことをするんだ」と怒られるから、側近たちは動かなかった。

ところが、もし主席が今言ったことが本当であれば、行動しないと、それは指示通りにやっていないということになる。みんながどうしようと考えている時に、呉旭君は「毛沢東主席、もう一度おっしゃってください」と確認しました。そこで主席ははっきりと言いました。「早くその報告書を持ってきなさい。アメリカ卓球チームを招待するのに間に合わなくなるぞ。今回は睡眠薬を飲んだあとの話だけど、ちゃんとした話なんだ」

 

そして、「この荘則棟という男は卓球が強いだけじゃなくて、我々外交の専門家よりも外交の才能があるかもしれないな」とつけ加えました。主席の指示はすぐに名古屋の中国代表団に届き、この指示に従って趙正洪団長がアメリカのスティンホーベン団長を中国選手団が宿泊しているホテルに招待しました。

その時に、趙正洪団長は「何日か前にハリソン副団長が来て、中国を訪問したいという話をされたが、我々は慎重に検討しました。中国は世界選手権のあと、アメリカ卓球チームの中国訪問を歓迎、招待しましょう」と伝えたところ、スティンホーベン団長は大いに驚き、自分の耳を疑いました。急に「アメリカチームの訪中に同意します」と言われたので、スティンホーベンは「もう一度言ってください」と聞き直しました。趙正洪団長はもう一度言いました。スティンホーベンはアメリカでは自動車のフォード社に務めるふつうの会社員でした。「アメリカ選手団として初めて訪中できることを誇りに思います。とてもハッピーです」と興奮しながら答えました。

さらに、駐日のアメリカ大使が「代表団としての訪中は問題なし」と決定を下したその対応を、のちにニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は大いに賞賛しました。

「ピンポン外交」が今まさに始まろうとしていました。それは卓球コートという会場ではなく、国際政治という舞台での出来事です。

〈次号へ続く〉

*参考文献 『米中外交秘録』(東方書店)

 

 

2002年、北京で会った時の荘則棟。人を惹き付ける話しぶりと表情が印象的だった

 

◎そうそくとう/ツァン・ヅートン

1940年8月4日、中国・揚州生まれ、北京育ち。61、63、65年世界チャンピオン。有名な中国とアメリカのピンポン外交(71年)での中心的な存在となり、その後、33歳でスポーツ大臣まで上りつめるが、76年の江青・毛沢東夫人ら四人組失脚とともに大臣を解任され、失脚した。2002年12月、北京市内に『北京荘則棟・邱鐘恵国際卓球クラブ』をオープンさせたが、2013年2月10日に逝去、72歳で生涯を閉じた

 

 

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