卓球王国 2022年1月21日 発売 vol.298
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インタビュー

亡き父の思いを胸に跡継ぎとして歩み始めた-勝山翔平

35年もの長きにわたり、地元卓球民の憩いの場として存在してきた諫早卓球センター(長崎県諫早市)に21年夏、衝撃が走った。創立当初からヘッドコーチ・代表として活躍していた勝山龍介さんが突然、58歳の若さでこの世を去ったのだ。8月28日、土曜日の朝のことだった。

「最初、平戸で船釣りをしていて体調を崩したらしいという連絡を受けた時には、熱中症にでもなったのかな?と思ったんです。そのあと、病院に連絡してみたら『心臓が動いてません』と。もう、真っ白になってですね。全然頭がついていかんやったです」

当時の状況を、龍介さんの長男・翔平が振り返る。母の悦子は熊本の実家に帰省していたため、姉の沙織とともに平戸市へ急行。しかし、龍介さんはすでに息を引き取ったあとだった。船上で心臓発作を起こし、そのまま帰らぬ人となったという。

翔平の父・勝山龍介さんは大の釣り好き。葬儀会場には一番の大物を釣り上げた時の魚拓が飾られた

家族はみな半ばパニック、ショック状態のまま、通夜・葬儀があわただしく執り行われた。鎮西学院高の先輩や後輩、市協会などの卓球関係者や釣り仲間、ママさんや中学生の教え子たち……広い会場に入り切れなくなるくらい訪れた弔問客の多くが、龍介さんの死を悲しむとともに、「センターはどがんなるとやろう?」という心配を口にしていた。
その最中、翔平の胸の内では決意が芽生えつつあった。

「いろんな人からセンターのことを聞かれて、その場では『まだ考えてません』と答えたけど、自分でも『あれ、どうしていくんだろう?』という思いが巡りました。
その中で、父以外の人があの場所に座っているのは嫌だな、という感情が沸いてきたんです。誰か知らない人が代わりに来て、自分もセンターに気軽に行けなくなって……というのを想像したら、それは受け入れられないと」

仕事中は無口だった龍介さん(右)だが、プライベートではイタズラが大好きでお茶目な人だった

そうした個人的な感情に加え、龍介さんの生徒やまわりの人たちが、翔平の全面バックアップを買って出たことも大きかった。

「ママさんたちが『翔平君、してみらんね』って声をかけてくれて。何かあったら言ってくれてよかけん、って。それはたぶん、お父さんが残してくれたものだと思うんです」(母・悦子)

龍介さんの小学校時代からの親友で諫早中卓球部コーチ、翔平の恩師でもある西田直樹も各方面に協力を要請。精神的に大きな後ろ盾となってくれた。

毎週木曜の夜、センターで子どもたちを指導する西田(左)。翔平にとっては非常に心強い存在となっている

ただ、その時の翔平は安定した企業で快適に働いていたビジネスマン。脱サラという最終的な決断は簡単ではなかった。

「勤めていた会社は給料も良くて、5年目くらいで仕事にも慣れてきていたし、正直迷いはありました」

7年間通った挙句に卒業できなかった大学を出たあと、将来に不安を抱えていた自分を拾ってくれたという恩義もあった。会社勤めを続けながら、夜のジュニア教室だけ手伝うことも選択肢として考えた。しかし、やはり中途半端になるのは良くないと判断し、職場へ辞意を伝えた。
現在は、センターの代表を母・悦子が務め、翔平は駆け出しのコーチとして汗を流す日々だ。

まだ慣れない指導に精を出す翔平(左)。「ママさんは若い子のほうがいいっていう話も聞きます(笑)」(母・悦子)

「難しい面もあるけど、今はママさんたちから元気をもらっています。本当に笑わせてくれて励ましてくれて。楽しく頑張れていますね」(翔平)
「『この前、翔平君に教えてもらった時に勝山先生(龍介さん)と同じことば言われたとよ』とか言ってくださる方もおられて、そういうのを聞けばうれしかですね」(悦子)

翔平が卓球を始めたのは中学1年の時。しかし、父は息子が卓球部に入ることに反対だったという。
「小学校の時も、教室には絶対入れてくれんやった。たぶん家でふざけたりしてる様子を知ってるから、人前で甘えが出るのが嫌だったのかな」と、悦子が当時を振り返る。
地元の名門・鎮西学院高時代にインターハイでランク入りし、熊本の実業団・寿屋でも活躍。全国や九州で数々の華々しい戦績を持つ偉大な父は、卓球の厳しさを知っているからこそ、息子に同じ道を進ませることにためらいがあったのかもしれない。
しかし、そんな父の言うことを聞かなかった翔平は卓球の道に進んだ。小学校の頃にはサッカーで鳴らした運動神経を武器に、中3の県中総体では個人戦でベスト4に入って九州大会出場。父と同じ鎮西学院高に進み、1年の頃には地区予選で負けて県大会にすら出られなかったにもかかわらず、3年時にはレギュラーを獲得。シングルスでもインターハイに出場した。鹿児島の志學館大では、3年時と4年時の2年間にわたってキャプテンを務め、チームの九州学生リーグ1部残留を死守したのが誇りだ。
ただ、やはり父の背中は大きいと感じている。とりわけ、指導者としてはキャリアがほぼないに等しく、思い悩むこともしばしばあるという。

「自分が教えた時に『でも、お父さんからはこがん教わった』って言われる方も多いんですよ。そういう時は難しいなあって思います。でも、それは最初からわかってたこと。後々はわからないですけど、今すぐに父よりすごくなったりはできないですから」

龍介さんの鎮西学院高の後輩でもあるコーチの上西園。「お父さんはあんまりしゃべらんやったけど、翔平君はバリバリしゃべるね(笑)」

とは言え、翔平の指導ぶりの評判は上々のようだ。龍介さんと30年来、二人三脚で諫早卓球センターのコーチを務めてきた上西園純は、次のように語る。

「人当たりが良くて結構よくしゃべるけん、ママさん受けもいいと思いますよ。ワイワイやってて、初めての人でも入っていきやすいんじゃないかな。勝山さんが亡くなった時は、自分ひとりでできるのか……と思ったけど、翔平君が来てくれて助かりました。これから頑張って、センターをしょって立ってもらわんばですね」

将来自分も年を取って、翔平も年を取ったらその時は跡を継がせてもいいかな……家族以外には生前、そんな台詞を口にしたこともあったという龍介さん。翔平も、遠い将来にはそういうことがあるかもしれないと思っていたが、その日は思いのほか早くやってきた。

諫早卓球センター外観。筆者(小川)も30数年前、ここに通い龍介コーチの薫陶を受けた。当時の指導は非常に厳しかったのを覚えている

「父に直接卓球を教わったのは、鎮西学院高に入る前の中学3年の一時期くらい。あとは最近ここ1年ほど、急に“相手してやる”って言ってくれて、ダブルスの多球練習とかで稽古をつけてもらうことがありました」

心臓に持病を抱え、数年前には癌も患って苦しんだ時期があった龍介さんだが、ここ最近は復調していた。子どもたちの指導にも熱が入っていたし、60歳になったらまた試合に出てみようかな、というくらい前向きな気持ちになっていた。翔平の練習相手をしたのも、まさか最後の手ほどきをしていたつもりなどなかっただろう。
その無念を、翔平は引き継いでいくつもりだ。

「今、センターに来ている中学生が結構強いんですけど、みんなぼくが教えたんじゃなくて父に教わった子たち。いずれは自分がイチから教えた子が強くなって、活躍してくれるように頑張りたいですね」

センターで汗を流すジュニア教室の子どもたち。龍介さんから引き継いだ宝物を、これから翔平が大事に育てていく

(文中敬称略)

文:小川勇気

 

勝山 翔平 かつやま・しょうへい
1991年8月22日生まれ、長崎県出身。諫早中、鎮西学院高卒。志學館大卓球部では3年・4年の時に主将。16年から地元の一般企業に勤めていたが、諫早卓球センター代表だった父・龍介さんの逝去を受けて21年11月に退職。跡を継ぐべく奮闘中

「People勝山翔平」は卓球王国2022年2月号にも掲載しています。