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「負けたらすべて終わるという時には集中力が出る」水谷隼全インタビューvol.4

 

香港での3日間は

あっという間でした。

今思い出しても

冷や汗が出る試合でした。

 

全日本で優勝することよりも

オリンピックの

代表になることの

ほうがアピールする力が

ある感じがします

 

世界選手権を3位入賞で終えた水谷隼は、広州から直接、香港に入り、五輪アジア大陸予選を戦った。出場選手中、世界ランキングでは王励勤に次ぐ2番目のランカーだったが、すんなりと代表権は手にできなかった。勝っても負けても試合が続く予選方式が彼の精神をかき乱していた。そして苦闘の末、3日目で代表権を獲得。晴れて8月の北京五輪の舞台に立つ。

◇◇◇

●——世界選手権が終わって、そのまま香港での五輪アジア大陸予選に向かった。メダルを獲った満足感を持って向かったのか、それとも韓国戦で2点落として、気持ちも落ちた状態で香港に向かったのか。

水谷 落ち込んではいなかった。終わったことだから。ただ、反省はするし、負けた原因をよく考えて、香港に向けて気持ちを切り替えた。香港に行く時には、ああいうふうな新しいトーナメント方式になっているのを知らなかったんですよ。最初のリーグ戦を1位で上がればいいか、というように考えていたけど、実際に行ったら違った。これはどうなるんだろうと思った。初日のリーグ戦の時には集中力がなかったですね。これで勝ってもまだ先が長いなと思ったら、集中力も出なかった。全勝はできたけど。

 

●——どの辺で目が覚めたんだろう。

水谷 3日目に蒋澎龍とやっていて、最終ゲーム8−8くらいの時。

●——ずいぶん遅いね。2日目には岸川と同士ちをやっている。

水谷 すごくやりにくかった。岸川さんとはやりたくなかった。初めは、岸川さんが吠えてくると思った。吠えてくると思ったのに、こなかったので、ぼく自身もいけなかった。吠えてきたらぼくもいくつもりだった。普段の岸川さんは声を出してくるタイプなので、向こうも意識して声を出してこないと思ったので、ぼくも意識して声を出さないでやるしかない。向こうが吠えてこないのに、ぼくが吠えるのはフェアじゃないと思った。

 

●——お父さんも来ていたけど、何か言っていた?

水谷 2日目の1試合目、北朝鮮のキム・ヒョクボンという選手との試合前に、「バックへロングサービスを出せよ」と言ってきた。1ー1か1ー2の10ー10のスコアの時に、お父さんの言葉が浮かんできてバックにロングサービスを出したらミスをした(笑)。それでその試合に負けた。試合後に(お父さんに)会った時にキレたんですよ。「お父さんがあんなこと言うからバックにロングサービスを出してミスした。もう絶対話しかけないで!」と。それからひと言も言ってこなくなった。ちょっと言い過ぎたかなと思いましたけど(笑)。

 

●——3日目の1試合目は蒋澎龍との試合で、勝てば代表権を獲得できる試合だった。それまで集中力が100%じゃなかったのはなぜだろう。なぜ集中力の火がつかなかったんだろう。

水谷 「負けてもまだ次がある、ここまで来ているのにまだ次があるのか」と思うから、集中力が出てこなかった。負けたらすべて終わるという時には集中力が出るんですけど。

 

●——そして蒋澎龍戦は緊迫した試合の中で、最終ゲーム、10ー11とマッチポイントを奪われて、そこでレシーブが高く浮いた。

水谷 あの時は時間が長く感じた。レシーブが浮いて、「やばい!」と思って、一瞬「ミスしろ」と思ったけど、次には「いや、取れそうだ。フォアにブロックしてノータッチで抜いてやろう」と思った。まるでスローモーションの中の出来事だった。最終ゲームのチェンジコートをしたあたりから気持ちが高まった。集中はしてたんだけど、あと何本かで代表になれると思ったら気持ちが高ぶった。ただあの蒋澎龍戦は最初から最後まで緊張してぶるってました。チャンスボールが来てもなかなか入らなかった。相手に取られないようなボールを無理に打とうとした。厳しいところに打とうとしたし、ラリーにしたくなかったから。それに相手のサービスも取りづらくて、ああ、嫌だなと思っていた。広州でも同じだったんだけど、あの時は向こうがミスをしていたから。

 

●——高く浮いたそのレシーブを蒋澎龍は空振りをした。

水谷 あれで絶対勝ったと思いました。すごく気楽になった。あのボールをミスして勝てるわけがないと、こっちに余裕が出た。

 

●——勝って、代表権を得た気持ちは?

水谷 最高です。香港での3日間はあっという間でした。今思い出しても冷や汗が出る試合でした。

 

●——良かったのは3人がそろって代表権を手にしたことだね。ひとりでも代表から落ちたら、あまり喜べないだろうから…。

水谷 岸川さんが勝ってくれて良かった。試合前の練習もぼくとやったわけだから責任を感じるし、勝ってくれて本当にうれしかった。岸川さんがジャン・ソンマンに勝った試合も完璧でしたね。もちろん自分だったらどうやったら勝てるんだろうと思いながら見る部分もあったけど。

やっぱり全日本で優勝することよりも、オリンピックの代表になることのほうがアピールする力がある感じがします。ぼくの中では広州でのメダル獲得とオリンピックの代表になったことは50対50くらいだし、卓球をやっている人にとってもそうじゃないですか。でも一般の人はオリンピック代表が90くらいで、世界選手権でのメダルは10くらいのような感じがします。

今は代表権を取ったことに満足し、落ち着いているけど、やっぱりオリンピックでメダルを獲りたいですね。それに向けてもっともっとモチベーションを上げていかなくてはいけない。

オリンピックと言っても、今はなかなか想像つかないですね。シングルスでは中国選手が3人出ているので厳しいと思うけど、団体戦はチャンスがある。

一番欲しいのは金メダルです、団体でもシングルスでも。でも銀メダルでも銅メダルでもうれしいでしょうね。今の実力だと厳しいけど、これから本戦まで頑張っていきたい。

◇◇◇

ホープスナショナルチームの子どもたちが書いた作文を見せてもらったことがある。「私の夢」というテーマで、日本の将来を担う子どもたちの作文には、「私の将来の夢は水谷隼選手のような選手になることです」と書かれていた。そのことを水谷に伝えると、「本当ですか。いや~、うれしいですね」と純粋に喜んでいた。

まだ18歳だというのに、気がつけば、水谷隼は日本卓球界の第一人者となり、トップランナーとして子どもたちの憧れの選手になっている。

卓球というゲームが好きな彼は、試合をこなせばこなすほど、それが身についていくタイプだ。しかも、それが緊張感のある、プレッシャーのかかる試合であればあるほど、彼の血となり肉となっていく。今年に入って全日本選手権、世界選手権、五輪予選を経験した。彼がひと回り大きく、強くなったのは間違いない。そして迎える北京五輪。今までの経験、直面してきた苦難、勝利の歓喜は、五輪のためにあったのかもしれない。

卓球の神から才能を授かった男——水谷隼に、勝利の女神は北京で微笑んでくれるのだろうか。

(文中敬称略)■

 

●水谷隼 みずたに・じゅん

1989年6月9日生まれ、静岡県出身。全日本選手権バンビ・カブ・ホープスでそれぞれ優勝、ジュニアで男子史上初の3回優勝、一般では17歳7カ月で優勝し、史上最年少優勝の記録をうち立て、今年2連覇を達成。世界選手権広州大会では団体銅メダル獲得、北京五輪日本代表。ドイツ・ブンデスリーガ1部『デュッセルドルフ』でプレー。この春、青森山田高を卒業し、明治大学に入学。スヴェンソン所属。世界ランク22位(2008年5月現在)

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