●2度の大会中止の悲劇にも、あきらめの悪い男は前を向く
再び世界で戦う機会を得た井藤だが、アジア大会の開催地・香港には暗雲が立ちこめる。逃亡犯条例改正を推し進める中国政府と香港政府、それに反発する香港市民が衝突する香港民主化デモが発生。2019年3月に始まったデモは鎮まる気配を見せず、激化の一途を辿る。井藤が「もしかしたらとは考えた」という最悪のシナリオ、大会中止が伝えられたのは開幕まで1カ月を切った10月中旬だった。
大会に向けて出発する予定だった10月下旬、井藤は羽田空港の展望デッキに向かった。本来であれば自分が搭乗していたはずの便を見送ると、涙があふれてきた。悔しさなのか、悲しさなのか、失望なのか、怒りなのか。何に対して、どんな感情をぶつければ良いのか、わからなかった。しかし、井藤に降り掛かる悲劇はこれだけでは終わらない。
2019年度の全国ろうあ者選手権はコンディション調整に苦しみ5位。それでも、強化部推薦で2020年6月の世界ろう者選手権の代表切符をつかんだ。だが、今度はパンデミックが世界を襲う。新型コロナウイルスの影響で、世界ろう者選手権は中止となり、またも井藤が世界で戦う舞台は奪われた。もちろん、度重なる不運に落胆もしたが、井藤は前を向く。
「35歳という年齢を考えると、2年連続で国際大会中止はキツいし、運がないなとも思います。『しょうがない』で済ませたくはないけど、それでも、卓球ができなくなるわけじゃないですから」
2度の悲劇を経験しても、まだまだ世界で戦うことは諦めていない。若い選手には身体のキレや体力では勝てないことは知っている。それでも、技術や戦術、駆け引き、すべてを使って「最後に卓球で勝てば良い」、今はそう考えている。その中で最近は、井藤らしい卓球に対する考え方の変化も生まれた。
「代表になることも大事だし、やる以上はそこを目指します。その中で卓球というものを、どれだけ深く知れるかに挑戦したい。結果だけにこだわるより、最近はそう考えるほうが自分に合っている気がするんです。数学も似た部分があるんですけど、卓球って、考えて、考えて、ようやく少しだけわかってくる瞬間がある。それが楽しいんですよ。なんでこんなにハマっているんでしょうね? 性格上、しょうがないですね」
落ち込むだけでは何も変わらない。年齢を言い訳にするのは、再び世界を目指すと決めた時にもう止めた。何度転んでも立ち上がって、卓球と向き合い続ければ道は開ける。何より、たくさんの人に背中を押してもらって今がある。
回り道もしたし、不器用な生き方かもしれない。でも、そんな井藤を見て思う。あきらめの悪い男もカッコいいじゃないか、と。(文中敬称略)
【PROFILE】
井藤博和(いとう・ひろかず)
1985年8月15日生まれ、鳥取県出身。箕蚊屋中学で卓球を始め、米子東高校時代に学校対抗で2度中国大会に出場。2015年アジア太平洋ろう者競技大会男子団体で銅メダルを獲得。2017・2018年度全国ろうあ者選手権男子シングルス2連覇。2019年アジア太平洋ろう者競技大会、2020年世界ろう者選手権日本代表。左ペン表速攻型。株式会社オークネット勤務
ツイート