選手時代の後半、腰とひざは限界に来ていた。その状態で両面裏ソフトのカットスタイルを続けていくことは困難だった。そこで、78年に2回目の全日本優勝を果たしたあとにバック面を裏ソフトから粒高に変える決心をした。粒高のほうがカットする時の腰への負担が小さいからだ。ただし、それまで10数年間、裏ソフトを使ってカットをしていたので、スイングを変えることは難しい。半年間かけて、裏ソフトと同じスイングで打てる粒高ラバーを探した。既製品はもちろん、トップシートとスポンジを変えながら何十種類のラバーをテストした。もし、自分に合った用具がなければ、この挑戦は失敗に終わる。
最後に行き着いたのは、皮付きのスポンジと薄いトップシートを組み合わせた粒高だった。スポンジの皮は表面ではなく、トップシート側にあるものを探し、トップシートの粒が切れると下のスポンジが透けて見えるくらい、粒の下のゴムシートが薄いものを選んだ。これならばスイングを変えずに使える。ラケットもそれまでは弾みをおさえた柳材のラケットだったのを、桧材のラケットに変えた。柳のラケットでは粒高でカットした時に飛んでいかないからだ。半年かけて自分に最適な用具を探し出し、そこから3カ月間で用具に慣れて、79年の全日本では3回目の優勝を果たした。
私の卓球の師である樋口俊一先生にこう言われたことがある。「青春の特権とは何か。それは時間を気にする必要がないことだ。時間を気にしなければ、夜も寝ないで練習することができる。昼でも夜でも練習したい時にいつでも練習できるのが青春の特権だ」。
75年のカルカッタ(インド)、77年のバーミンガム(イングランド)の世界選手権の時には、大学を卒業して近畿大学の職員になっていた。ヨーロッパや中国のプロ選手と対抗するためには、樋口先生の教えを実行するしかなかった。昼間は仕事をしていたし、大学のコーチもしていたので、練習時間は限られているが、夜中なら時間はある。大学の後輩だった小野誠治をつかまえては、週に何度か午前2時、3時まで練習をしていた。大学時代同様、高島は頭がおかしくなったと言われながらも、周りのそういう声は、「自分は絶対強くなる」という自分自身の確信に変わっていった。
今の日本には素質がある選手が多い。ところが世界のトップに駆け上がっていく選手は少ない。なぜ世界で勝てないのか。キーワードは「練習量」だろう。1年間でいいから徹底的に、クレイジーと言われるくらいに練習をやり、一気にレベルを上げていくことが必要なのだ。そのレベルに行くための尋常でない努力をすれば、世界レベルに行ける選手は日本にはたくさんいる。
まさに自分を変える努力、世界で勝つための努力をしなければ、世界の頂点に立つことはできないのだ。
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高島規郞[たかしま・のりお 元全日本チャンピオン・世界3位]
昭和47・53・54年全日本選手権男子単優勝。1975年世界選手権カルカッタ大会男子単3位。華麗なカットで「ミスター・カットマン」と呼ばれた
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