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欧州リポート

リオ五輪団体銀メダリスト・P.ゾルヤが現役引退を発表。28歳で華々しいキャリアに幕

 ドイツ代表としてリオ五輪団体戦で銀メダルを獲得したペトリサ・ゾルヤが現役引退を発表。抜群のボールフィーリングを生かしたプレーで、アジア勢とも対等に渡り合ってきた左腕が、28歳という若さでラケットを置くことを決めた。

リオ五輪団体戦で銀メダルを獲得したゾルヤ(後列左端)

 

 3歳で卓球を始めたゾルヤは14歳の時にブンデスリーガ1部でデビュー。2012年の世界ジュニアでシングルス3位となり、2015年に仙台で開催された女子ワールドカップでは福原愛を破るなどして銅メダルを獲得。翌年のリオ五輪団体戦・準決勝では日本から単複2勝をあげる活躍で、ドイツを決勝へと導いた。2021年のヨーロッパ選手権ではシングルスで頂点にも立った。

 ダブルスの名手でもあり、ヨーロッパ選手権でも優勝を果たしたシャン・シャオナとのコンビネーションは絶品。フランチスカとの混合ダブルスでも2017・2019年の世界選手権で2大会連続3位に輝いており、東京五輪混合ダブルス・準々決勝で水谷隼/伊藤美誠をあと一歩まで追い詰めた試合は記憶に新しい。

 ゾルヤは今年8月に地元・ドイツでのヨーロッパ選手権に出場する予定だったが、7月に古傷の椎間板の故障が再発。その後の休養期間の間に引退という決断を下したとのこと。引退の理由はモチベーションの部分が大きいようで、ゾルヤはドイツ卓球協会ホームページ上で、25年の現役生活、そして引退についてコメントを発表している。

 

 「引退することを決めましたが、今はとても落ち着いた気持ちで、人生の次の章を楽しみにしています。私はいつも誠実に、心を込めて卓球と向き合ってきました。しかし、(休養期間に)自分自身の声に耳を傾ける中で、卓球が私にとっての最優先事項でなくなってきていることに気がつきました。私には『100%で取り組むことができないのなら、卓球はやらない』という一貫したものがあります。『やるか、やらないか』のどちらかなんです。

 キャリアに関しては、目標はすべて達成できたし、時には不可能だと思えたことも叶えることができました。ドイツでも、ヨーロッパでも、世界選手権でも、ワールドカップでも、オリンピックでもメダルを獲得して、ヨーロッパチャンピオンズリーグでも3回優勝を経験できた。美しい瞬間がたくさんあって、意外かもしれないけど、その中で真っ先に思い浮かぶのは初めてドイツチャンピオンになった時です。その時のトロフィーは私のコレクションの中でも名誉ある位置に飾られています。

 私には大きな夢がありましたが、いつも現実的な目標も持つようにしていました。そうした目標を一つひとつ達成する中で、自分には大きな可能性があり、そうやって努力することで大きな成功を収めることができると理解しました。すべては、最初の小さな一歩から始まるのです。私は卓球しか知らず、卓球とともに育ったと思っています。だから、卓球はいつまでも私の一部。卓球に打ち込んできたことは、確実に私にとって正しい道でした。

 (引退後は)心理学に興味があり、2018年から通信学習でビジネス心理学について学んでいて、すでに3分の1ほどの単位を取得しています。新しいことを学ぶのは楽しいですが、レポートは大変ですね。あとは卓球のためではない旅行もしたいし、試合を気にせず、友だちの誕生日会にも行けるようになりました。それが私にとって小さいけれど、一番楽しみにしていることです。(今後の人生について)もちろんプランはありますが、どうするかはまだわかりません。ただ、とても楽しみだということは確かです。

 (引退を周囲に伝えた時は)とても驚いていましたが、すべての人が肯定的に私の決断を尊重してくれました。協会、ナショナルチーム、クラブ、スポンサー、尊敬する人々と良い関係でキャリアを終えることが私にとって重要だったので、本当に感謝しています。そうした人々がいてくれたことが、引退を悩んだ理由でもありました。選手として完璧なキャリアだったと思うし、自分自身を誇りに思います。私と一緒に旅をしてくれたすべての人に心から感謝します」(ペトリサ・ゾルヤ)

 

 ゾルヤの引退についてはナショナルチームのメンバーをはじめ、多くの声が寄せられたが男子のフランチスカ、ボルもコメントを残した。混合ダブルスのパートナーであったフランチスカは「彼女ほど優れたブロックができる選手はいないと思っているので、練習相手が必要になった時は、間違いなく彼女を呼びます」とコメント。長くナショナルチームでプレーするボルも引退の決断に敬意を表し、「ゾルヤがナショナルチームに入ったばかりの頃、恥ずかしがり屋だった彼女が勇気を出して『ユニフォームをください』と声をかけてきた」と思い出を語った。