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ピンポン外交50周年 伝説のチャンピオン荘則棟 波瀾万丈の人生を語る

フォアとバックのペンホルダー両ハンド型の荘則棟。フォアハンドはフリーハンドを巻き込むような独特のフォームだった

 

何か新しいものを創り出すためには、

何かを破壊しなければいけません

 

 50年代、初めて世界選手権に出場した中国は、日本が世界を席巻する傍らで、徐々にではあるが、その王座を狙っていた。地元北京での世界選手権を2年後に控えた59年に容国団がシングルス優勝。中国に初のタイトルをもたらしたのだ。

 迎えた61年の北京大会。弱冠20歳の荘則棟が男子団体でエースとして大活躍し、優勝に大きく貢献。その勢いでシングルスでも優勝をもぎとった。

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世界選手権の男子シングルスの優勝カップはセント・ブライド杯と言われるものですが、この優勝カップは偉大で、かつ清廉なもので、何人もの世界チャンピオンの精神と涙が刻まれています。たとえば二度世界の頂点に立った荻村伊智朗さんと私はお互いが似ている部分、共通している部分をかなり持っていました。私は荻村さんが独自に展開した51%理論に共感し、それを支持しました。何か新しいものを創り出すためには、何かを破壊しなければいけません。破壊がなければ発展はしない。何かを裏切り、まわりに反対を受けることは覚悟しなければならないのです。

この前陣両ハンド攻撃のスタイルを取り入れてから、私自身の成績もグングンと上がっていきました。60年代当時、中国は世界で一番強く、その国内選手権で私は64、65、66年で3連勝。3連覇した初めての選手でした。また、その国内大会よりももっと難しい試合と言われるナショナルチームのリーグ戦でも、私は3連覇したことがあります。

56、57年に3回あった北京のジュニア大会で3連勝し、57年の国内選手権では混合ダブルスで優勝。17歳での優勝は当時話題になり、大きな反響がありました。その頃、専門的な業余学校もなく、私は一般の中学生でした。58年には北京市のチャンピオンとなり、59年の国内大会では団体優勝と混合ダブルスの2位。59年4月にドルトムント(ドイツ)で世界選手権があり、容国団が優勝しましたが、その時私はまだ強くなくて、容国団や徐寅生のほうが強かったので代表には選ばれてません。ただ、同じ年にヨーロッパ遠征があり、選ばれた私は、そこで無敗の成績をあげ、力もつけていった時期です。

60年のナショナルチームのリーグ戦で王傳耀に負け、準優勝。このリーグ戦では時の世界チャンピオン容国団にも3-0で勝ちました。そして、同年末にあったリーグ戦で優勝。これは第26回世界選手権北京大会前の試合でした。

運動選手の日常というのはベールに包まれ、とても神秘的なものに思われていますが、私たちは集団生活をしながら、一致団結して国の名誉のために頑張っていました。その一方、個々の中ではお互いに良い意味で競争しているのです。ある時は仲間であり、ある時はライバルとしての微妙な関係だったのです。

北京大会当時は中国国内では1番手が容国団で、私は2番手になっていましたが、あの頃、徐寅生、李富栄、周蘭孫、張燮林と私の5人はほとんど同じレベルでした。

当時は日本が最大のライバルでした。日本は世界チャンピオンであり、日本が持っているドライブボールは確かに威力がすごかった。そのボールが入ってくればなかなかブロックできずに、とれなかったのです。

ここでひとつのエピソードを紹介しましょう。北京大会での日本との団体決勝。チームメイトはトップに出ることを嫌がるほど、日本というチームは脅威だったのです。そして、私がトップに出ていきました。

私は北京生まれで、地元での世界大会だったのでとても大きなプレッシャーを感じていました。その何カ月前から徐寅生、容国団、李富栄という選手たちは対日本のドライブ対策をやっていました。そのために余長春などの対日本用のトレーナーに相手をしてもらい、ドライブを打ってもらいながら練習していました。

しかし、私ひとりだけは「結構です」と言って、それらのトレーナーとは練習をしませんでした。その時に監督に「おまえはどうかしているんじゃないか」と怒られました。「どうしてみんなが日本対策の練習をしているのに、君はやらないんだ」とすごく怒られたのです。

その時、私が思ったのは、日本選手に対して、長いボールを送らずに短いボールを送ればドライブを打たれない。短いサービスを出してツッツキレシーブをさせて、自分が両ハンドで攻めていく。相手の弱いバックを攻めていきながら、相手のブロックに対して連続して攻めていく戦術が有効ではないかと自分で研究し、作戦を練ったのです。

その時に監督に、「君のそのやり方はいい」と支持され、「相手は相手、自分は自分というような戦術でいいでしょうか」と聞いたら、「それでいいだろう」と言われました。相手の試合と自分の試合を別々に考えればいい。ほかの選手のように打たれてから何かをやる、打たれたらどうしようというのではなく、打たれる前に自分から何を仕掛けるのかが重要なのです。

私は自分の技術に対して自信を持っていました。当時の中国の陳毅副首相からひとつの言葉をもらっていました。「技術を持っていれば度胸もつく。度胸があれば技術はもっとすぐれたものになる」というものです。それが私の当時の心境だったのです。

大会前のあるミーティングでは、徐寅生にこう言われました。「私はバックで攻められないからミーティングをするけれど、君は両ハンドで攻撃できるのだからミーティングの必要はないよ」。徐寅生も左押し右打ちよりは、両ハンド攻撃のスタイルのほうがもっと時代をリードしているんじゃないかと考えていたのではないか、ということも推測できます。ミーティングでは「荻村伊智朗に対してはこう攻めよう、星野展弥にはこう攻めよう」とみんなで何度も話し合っていたのです。

団体決勝のトップで、私は星野展弥さんと対戦しました。21-14、24-22で勝利をあげました。2番で徐寅生は木村興治さんに、3番で容国団が荻村さんに敗戦を喫しました。4番で徐寅生が星野さんに勝ち、2-2のタイとなり、5番で私は荻村さんと対戦し、13本、13本のストレートで勝ちました。

私が荻村さんに勝ったあと徐寅生に「小荘(荘則棟)、荻村にはどうやって勝ったんだ」と聞かれました。その時は本当に日本に勝ちたかったから「老徐(徐寅生)、あなたが決めた戦術は使わないほうがいいですよ。今は状況が違うから」とアドバイスしました。「日本選手のドライブは本当に強い。まず荻村のフォア前に短いサービスを出す。彼はドライブができないからツッツキをしてくる。それをショートを使わないでバックハンドで軽く払っていけばいい。バックハンドで打たなくてもいいから、軽く払うだけでいい」と言いました。

6番で容国団が木村さんに敗れたあと、結局、7番で徐寅生は私よりも簡単に荻村さんに勝ちました。7本と8本でした。

 

書道の達人でもあった荘則棟。このときのインタビューで直筆で題字を書いた。[逆境が人を諫める。栄誉と恥辱に動じない]という意味。自らの栄光と逆境の日々を表した

 

「荘則棟の卓球には王者の気迫がある」と

よく言われました

 

91年に日本を訪れ、大阪に行った際に星野さんの家に招待されました。星野さんに質問を受けました。ひとつは、「いつ中国は日本選手のドライブを知ったのですか」という質問。日本からの情報がどのように流出したんだろう、それが日本に大きな失敗をもたらしたと星野さんは悔しがっていました。

その時、私も彼に質問しました。「北京大会は、あなたにとって一番いい試合だったんじゃないですか。それなのにあれが最後の世界選手権になりましたね」

星野さんはこういう話をしました。「その時、私はドライブ打法を開発して、自信満々で中国に行きました。でも、団体決勝のトップであなたと試合をして、両ハンドの前陣速攻スタイルでいきなり打たれて負けました。その時ベンチに帰って、コーチに言いました。『中国に荘則棟のような前陣速攻の両ハンド選手が出てきたら、私たち日本選手は危ない』と。結局、コーチは『そういうのはほかの選手の心を乱すような発言だ』と怒り、それから私を試合で使わなくなりました」。星野さんは人心攪乱の選手とコーチに見なされたのでしょう。

資料として8mmフィルムを見た時に私が感じたのは、日本選手は台から出たボールに対しては非常に強いのに、台上のボールはあまり強くないということ。それはグリップ(握り方)の関係もあるでしょう。

私の全盛期に、左押し右打ちの選手と対戦した時には「私は絶対に勝てる」と心の中で思っていました。その当時、「荘則棟の卓球には王者の気迫がある」とよく言われました。

北京大会で、荻村さんは団体で容国団に勝って、シングルスでは周蘭孫に勝って、私と準々決勝で対戦した。その時に、中国首脳陣は心配になって、私にこう言いました。「小荘、大丈夫か? 荻村は周蘭孫に勝っているぞ」と。私は彼らに約束しました。「私は絶対勝てます」と。結果、私は荻村さんに勝ったのです。

私が負けた日本選手は、木村興治さんと高橋浩さん、小中健さんで、木村さんには3勝2敗で、高橋さんには1勝3敗です。私は左利きと両ハンド攻撃の選手に弱かったのです。小中健さんにも3勝1敗で、彼も両ハンド攻撃スタイルでした。

北京大会のシングルス準決勝はすべて中国選手だったので、気持ちとしてはかなり楽になっていました。強い国として警戒していたのは日本とハンガリーで、団体でもシングルスでも日本選手に勝って優勝したので、中国国内でも大きな反響を呼びました。シングルスの中でも外国選手に対しても圧勝していたので、気持ちとしても非常にうれしいものでした。当時の目標は世界選手権に出て良い成績を取ることだったので、その目標を達成した喜びがありました。

60年から62年までの3年間を中国では「3年災害時期」と言い、自然災害が重なり、餓死者が多く出た時期でした。北京大会は61年ですが、その困難な時期に私と私の戦友たちが挑戦する精神で北京大会の優勝を勝ち取ったことで、人民を大いに勇気づけたのです。

チャンピオンになって、中国の名誉のために頑張った人は中国の英雄、ヒーローになれた時代だったのです。

〈次号へ続く〉

 

◎そうそくとう/ツァン・ヅートン

1940年8月4日、中国・揚州生まれ、北京育ち。61、63、65年世界チャンピオン。71年の有名な中国とアメリカのピンポン外交での中心的な存在となり、その後、33歳でスポーツ大臣まで上りつめるが、76年の江青・毛沢東夫人ら四人組失脚とともに大臣を解任され、失脚した。2002年12月、北京市内に『北京荘則棟・邱鐘恵国際卓球クラブ』をオープンさせたが、2013年2月10日に逝去、72歳で生涯を閉じた

 

9月21日発売号の中の「伊藤条太の卓球おもしろ物語」では、【世界を動かしたピンポン外交】が書かれている

 

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