地元九州では、多くの好選手を輩出してきた名指導者として、全国的には、ネット販売で成功を収めたビジネスマンとして、その名を知られる小園江慶二(こぞのえ・けいじ)。御年70を過ぎて今なおラケットを握る名伯楽の人物像に迫った。
小園江が卓球と出合ったのは、小学校6年生の頃。父が営む鉄工所に置いてあった卓球台で、休憩時間に社員の人たちと遊びで打ち合ったのがすべての始まりだった。
高校受験で挫折を経験し失意の中にあった小園江は、卓球に打ち込み、努力が形になる喜びを知ったことで自信を取り戻していく。そして、高校3年時の全日本選手権ジュニアの部・福岡県予選で優勝。その本戦では運命的な出会いがあった。
「初めて来た全日本の会場で、夢見心地でフラフラしていたらまわりとはぐれて迷子になったんです。その時、宿舎を提供してくれていた早稲田大のマネージャーが『君、うちで寝泊まりしてた子だよね?』と声をかけてくれて。一緒に帰ってくれた道すがら、『お前、早稲田受けてみないか?』と言われたんです」
それから福岡に戻り、「人生で一番勉強した」と笑って話す数カ月間を過ごした小園江は、志望通り早稲田大に合格。無名高出身ながら部内でも一、二を争う練習量、友人とふたりで寮生全員分のカレー23人前を一気に食べるほどの食欲(早大卓球部の伝説となっている)で力をつけ、3年時にはレギュラーを獲得した。そして、関東学生リーグ1部でシングルス12勝6敗と勝ち越して卒業したのち、日本卓球株式会社(ニッタク)に就職する。
ニッタクで小園江に与えられた仕事は、販促活動。国内と海外を半年ずつ行き来する生活となった。とりわけ海外では学生時代に培った競技力を生かし、指導員として活躍した。
「初めて行ったのがシンガポール。当時のシンガポールは今みたいに中国系の選手がいる強豪ではなく、地元の子ばかりでした。経済的にもまだ発展してなくて、コーチのぼくに最初あてがわれたのはボロッちいアパートだった」
ところが、次の日に状況が一変する。
「文部大臣が見に来られて、その前でナショナルチームのみんなと試合をしたんです。そしたら、全部ぼくがコテンパンに勝った。すると、翌日から超高級マンションに住まいが変わったんですね(笑)」
シンガポールでは小園江の指導でチームの戦績が上がったこともあり、監督まで務めることになった。そのほか、インドネシアなど東南アジアの周辺国にも行脚。毎回、日本を発つ前には荻村伊智朗氏(元世界チャンピオン/のちの国際卓球連盟会長)を頼り、訪問国の情報をレクチャーしてもらっていたという。
「23歳から28歳くらいまでに、外国の様々な文化を吸収できたのは本当に貴重な経験でした。あと、荻村さんは怖かったぁ(笑)。氷のような知性を感じましたね」
1976年、30歳になる頃、小園江はニッタクを退社して地元福岡に帰り、卓球場&ショップ「こぞのえスポーツ」を旗揚げする。それは、学生時代から思い描いていた計画通りだったそうだ。
「渡りに船だったのは、ニッタクから振り込まれる給料とは別に、海外でのコーチ活動の収入があったんだけど、それを会社に納めなくてよくて、全部自分の収入にできたこと。それを貯金に回して開店資金にしたんです。ホントにラッキーだった」
開業当初から社員を4人雇用し、卓球台14台を設けた一大施設を用意。当時は近くに競合店が1軒しかなかったこともあり、オープン直後から地元のママさんや子どもたちでにぎわった。
「単に自分が好きだから卓球に入れ込んでるということではなく、企業として成り立ちたいという思いが最初からありましたね。仲間と一緒になって、会議なんかもきちんとやって、会社らしくしたかったんです」
物販と教室の二刀流で、当初の経営は堅調。とりわけ、指導の成果は目覚ましく、小中高の九州チャンピオンをこれまでに延べ40人以上、全国ランクに入った選手も20名ほど輩出してきた。だが、小園江の指導に対する並外れた情熱は、思わぬ苦境をもたらしてしまう。
「90年代前半、バブルがはじけて世の中が不景気になった時、ぼくはあまりにも指導に熱中して売り上げが下がることに見向きもしなかったから、スタッフがみんな辞めてしまった。それから3年くらいで、借金をひとりで返した時はつらかったね。オーバーな話じゃなく、今日も漬物だけでいいや、という暮らしをしていました」
ただ、そんな状況に陥った小園江の心境には、不思議な変化があったという。
「どん底になる前は、ある程度成功して名を上げたせいで自意識過剰でした。選手には『なんで強くならんのや!』、社員にも『なんで売り上げが上がらんのや!』という態度をとっていた」
「でも、どん底を経験して、自分が優しくなりましたね。何でも、自分が悪いっていう風に思えるようになった。辞めた子たちに一切批判の気持ちもないし、お金を払いきらんやったこっちが悪いんだよって。それからはうまくいかないことがあると、『原因は内にある』と思って、自分側に原因を求めるようになりました」
すると、事態は好転し始めた。アルバイトでひょっこりやってきた若手スタッフが中心となり、インターネット販売を開始。そこから売り上げが右肩上がりで伸びていき、従業員が再び増え、社内の雰囲気もグッと明るくなったのだ。
「この運命にはホントに心から感謝しています。こんなにうまくいくのは従業員のおかげなんだと芯から思えるようになり、自分がすごく変わることができました」
ネット通販事業は今や、国内売り上げトップクラスにまで成長。17年には長男の慶一郎さんに社長職を譲り、経営の大部分を任せている。
その一方で小園江自身は、19年に創部された福岡女学院高卓球部の監督に就任した。きっかけは、16年リオデジャネイロ五輪が終わった後に、同校で当時の日本ナショナルチーム女子監督だった村上恭和氏が講演会を行ったこと。
同校に卓球部がないと聞いた村上氏が、「すぐ近くに小園江さんという方がおられるから、協力してもらって卓球部を作ってはどうですか」と、関係者に勧めたのだそうだ。
日本生命卓球部の監督でもある村上氏とは、小園江の長女・香織さんが同部に所属していた頃からの付き合い。話はトントン拍子で進んだ。
そして、福岡女学院高卓球部はすぐさま快進撃を見せる。創部1年目で県大会2位、2年目で全国高校選抜大会出場、3年目でインターハイ出場……と、周囲も目を見張るほどの躍進ぶりとなった。
「ラッキーは重なりましたけど、最低限の目標として、全国に勝ち進むこと。それができなければ、自分が頼まれた意味がないというくらいには思っていましたね」
とは言え、小園江は結果だけを求めているわけではない。かつては時として鉄拳制裁をもいとわない鬼軍曹だった時期もあったそうだが、その頃から変わらない信念がある。
「努力したら報われる、はウソ。最終的にはひとりしか勝たないからね。結果より自己記録が伸びることが大事。70だったものが75になった選手より、30だったものが50になった子を褒める。お前のほうが伸びてるんだぞってね」
「一将功成りて万骨枯る(ひとりが功績を上げる陰で、多くの部下が報われず、犠牲となることのたとえ)みたいなことにはしたくない。みんなに成功者になってほしいわけよ。卓球を習ってよかった、とすべての生徒に思ってもらえるのが、ぼくにとっての成功」
近頃は、孫を可愛がるお爺ちゃんのような心境で女子高生やクラブの子どもたちを教えているというが、教育者・指導者として<人を育てる>という使命を忘れることはない。
「君たちは何のために卓球をやってるかな」――筆者が取材に訪れた当日、自社の練習場で小園江は、教室の生徒にそう問いかけていた。しかし、子どもたちはなかなかうまい答えを返せない。そこで――
「卓球は難しいんだよ。その難しい卓球がどうやったらうまくいくかって、悩んで考えて一生懸命取り組む。その経験が、大人になって社会に出た時に生きるんだ」……小園江は、子どもたちに続けてそう語った。そこには、60年を超えるキャリアの中で培われた確かな卓球観・人生観が息づいていた。
同じ問いを、時として会社のスタッフにも投げかけることがある。すなわち「君たちは何のために仕事をしているの?」と。そして、小園江は次のような答えを用意している。
「一番大事なのは、仕事が面白いかどうか。どうしたら楽しくなるかを考え
たやつが、豊かな人生を送るんだよ」
卓球とともに歩み、楽しさも苦労も散々味わってきた、山あり谷ありの人生。卓球に取り組む後進へのメッセージを尋ねると、次のように答えてくれた。
「スポーツは楽しい。笑顔があっても強くなれる。それを一番に伝えたいですね」
小園江 慶二 こぞのえ・けいじ
1947年10月9日生まれ、福岡県出身。南筑高、早稲田大卒。日本卓球㈱勤務を経て、76年地元福岡に卓球場兼専門店「こぞのえスポーツ」を開業。指導者・経営者として45年以上活動してきた。19年には71歳で福岡女学院高の卓球部初代監督に就任
「Poeple小園江慶仁」は「卓球王国2022年1月号」でも掲載しています。
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