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インタビュー

卓球メーカー社長インタビュー vol.1 『スティガ』早川徹社長 【前編】

 

 

不況のあおりで就職がだめになったが

人との繋がりで卓球の貿易会社に務めることに。

 

――中学時代の卓球の成績はどうだったの?

 

早川 入間市ではひとり勝てない子がいて個人戦は毎回2位でしたが、その上の地区大会では優勝しました。県大会ではたぶんベスト32くらいが最高だったと思います。関東大会や全国大会に行けるようなレベルではありませんでした。

 

――高校は県内の強豪校である狭山ヶ丘高校に行ったわけだけど、自分で選んだのかな?

 

早川 いえ、自分としては地元の公立高校に行って卓球は楽しむ程度と考えていたんですが、通っていたフジイケクラブの方に「落ちると思うけど、狭山ヶ丘高校のセレクションに行ってみたら」と言われたので受けてみたら、その日の調子がすごく良くて。結構勝ってしまって、セレクションに受かっちゃったんです(笑)。

 

――受かっちゃったって(笑)。合格通知みたいなものが来たってこと?

 

早川 当時の狭山ヶ丘高の顧問の宮本先生から「よければ、うちに来てくれないか」と言っていただきました。両親に相談したらとても驚いていましたが、「自分が行きたいならば行けばいい」となって、それで狭山ヶ丘高校に進学することを決めました。

 

――あの当時の埼玉県には、吉田安夫(故人)さん率いる埼工大深谷高がいたから県予選はかなり厳しかったよね。

 

早川 はい、相当強かったです。全国で優勝争いしているチームですから。ぼくが1年の時は団体戦には出る幕はなかったですが、2年と3年の時に対戦しても全く歯が立たず、力の差に愕然としました。

団体戦に関しては、当時は2チームがインターハイに行けたので、埼工大深谷高以外の一枠をとにかくゲットするのに必死でしたね。

インターハイの団体戦には2年間出場しました。ただ、個人戦は埼工大深谷高の他に、うちの高校のひとつ下に中国人留学生が2人いたし、他の高校の選手も強く、1度も出られませんでした。

 

――狭山ヶ丘高校から東洋大学への進学については?

 

早川 中学卒業の時と少し似ているんですが、ぼくとしては高校卒業後は地元の市役所を受けて、もし受かれば仕事をしながら卓球もやろうと考えていました。

そんなおり、顧問の先生から「厳しいと思うけど、東洋大学体育会卓球部のセレクションを受けてみないか」とお話があって。それで、東洋大のセレクションに行ったんですが、同期も先輩も強くてなかなか勝てなかった(笑)。

これは落ちたなと思っていたら、当時の東洋大の4年生から「夜間の学部だけど、早川はセレクションに合格とするからぜひ受けて」と連絡があって。とても驚いて、市役所と大学とで悩みましたが、最終的には東洋大に入学して、卓球部に入りました。夜の授業は大変でしたが、昼間にたくさん練習ができるので卓球という面では良かったですね。

 

――狭山ヶ丘高のセレクションではたまたま調子が良くて受かって、東洋大のセレクションはあまり勝てなかったけど拾ってもらった、ということですね。

 

早川 はい(笑)。自分の想像してた道とは違いますが、人を通じて卓球の道に進んでいる感じですね。そして、大学卒業のタイミングからも同じように人の繋がりで助けられてきました。

 

――どういうこと?

 

早川 大学卒業後は、某信用金庫への就職がほぼ決まっていたんですが、不景気のあおりでそれがだめになってしまいました。また、その後もう1社どうにか決まりかけていましたが、こちらも不景気のあおりでだめになってしまって。

他に就職活動をする時間もなく、どうしようと思っていた時に卓球チームの先輩から、広告代理店のアルバイトを紹介していただいて、そこでアルバイトをしていると「社員にならないか」と言っていただき、正社員となりました。

 

――思い出した。そう言えばそうだったね。

 

早川 その広告代理店には4年ほどお世話になりました。その後、学さんたちに声をかけてもらって入った卓球チームもメンバーが増えていて、チームメイトで卓球の貿易会社を興していた荻村さんから「うちで働かないか」と声をかけてもらいました。

 

――それがきっかけで卓球の仕事をスタートしたわけだね。

 

早川 27歳の時でした。当時のぼくは選手のことも用具も詳しくなかったし、英語も全くできないのに、それでも来てほしいと言われたことはうれしかったですね。

仕事をしながら英会話にも通わせていただきましたが、実用に関してはなかなかのスパルタでしたね(笑)。入社したばかりで英語も全く話せないのに「ドイツに行って向こうのメーカーの方と会うように」と言われて、ひとりでドイツに行かせていただいたり(笑)。荻村さんに言われたのは「フランクフルト空港に着いたらマルコという人が待っているから」とだけ。ぼくは「誰だマルコって?」ってなっていました(笑)。

ある時は、「ワルドナーとパーソンがスウェーデンから来日するから、お前が空港に迎えに行って」と言われて。ぼくは面識もなく、英語が話せないのに。でも、今思えばそうした経験はとてもありがたかったですね。度胸も付きましたし、段々と英語も話せるようになりましたので。そのおかげで、ヨーロッパや中国の卓球メーカーとの仕事も増えて、とても勉強になりました。

卓球の貿易会社には13年ほどお世話になり、その後にスティガに入ることになります。

 

■後編に続く■

 

 

早川徹/はやかわとおる

1976年4月10日生まれ。埼玉県出身

中学に入学と同時に卓球部に入る。中学時代は埼玉県入間市大会2位、埼玉県西部地区大会優勝。狭山ヶ丘高に入学するとインターハイには団体戦で出場、個人戦では全日本ジュニアで埼玉県代表になる。東洋大時代はインカレに出場。

社会人になってからもクラブチームで卓球を続けて、全日本クラブ選手権に多数出場、2部優勝メンバー。全日本社会人選手権埼玉県代表、全日本マスターズ埼玉県代表。

広告代理店、卓球貿易会社を経て、2017年1月にスティガ・スポーツ・ジャパンに入社し、取締役に就任。2021年3月1日付けで同社代表取締役に就任した。

 

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