知っているようで知らない卓球メーカーの社長さん。どんな人物が、どんな経緯で、卓球メーカーの社長になったのか。社長という重責を務める人物を卓球王国編集長の中川学がインタビュー。
第2回は、ドイツの歴史ある人気ブランド『ドニック』の日本総代理店、ドニック・ジャパンを運営するイルマソフト株式会社の瀧澤光功取締役が登場。前編に続いて、後半のインタビューをお届けします。
卓球メーカー社長インタビュー vol.2 『ドニック』瀧澤光功取締役【前編】はこちらから
ドニック・ジャパンの瀧澤光功取締役
――大学卒業後にお父様が経営するイルマソフト株式会社に入社しましたが、コンピュータのソフトウエア開発が主な事業のイルマソフトが、ドニック・ジャパンを行うことになった経緯を教えていただけますか。
瀧澤光功(以下・瀧澤) イルマソフトは、父が1988年に地元の入間市で創業した会社になります。父は中学時代に卓球部に入っていて、全中に出場していたようですが、高校からは卓球を辞めていたそうです。
ちょうど私が生まれた時にイルマソフトを起業したこともあって、小さい時の父には「ずっと仕事で忙しい」という記憶しかないです。私が朝学校に行く時間に仕事を終えて、家に帰ってくることが多かったですね。
私が中学で卓球部に入ってから、小学生の弟も近くのフジイケクラブで卓球を始めました。その頃には会社が軌道に乗って少し落ち着き始めていた父が、仕事の合間を見て時々卓球の相手をしてくれるようになりました。父が昔卓球をしていたということをなんとなく聞いてはいましたが、一緒に卓球をしたのは私が中学に入ってからでした。
父が中学時代に卓球をやっていた関係もあって、ソフトウエア事業に加えて2001年に卓球用品を販売するネットショップ『iruiru(イルイル)』を開設しました。卓球関係者からはiruiruが国内で一番最初の卓球専門のネットショップだと言っていただいています。卓球用品のネット販売を始めたことで、ドニックから日本での代理店のお話をいただきました。
しかし、お恥ずかしいことに当時の私たちはドニックというブランドのことをよくわかっていませんでした。ビジネスの話をいただいてから調べたところ、ヨーロッパではとても有名なブランドであることを知りました。
――2008年からドニック・ジャパンとしてスタートしていますが、当時を振り返るとどうでしたか?
瀧澤 正直、最初はめちゃくちゃ困りました。会社として卓球用品のネットショップは順調に進められていましたが、卓球メーカーとしての仕事は初めてだったので、知らないことばかりでした。また、私自身も社会人になったばかりでしたので、全て自分で調べるところからのスタートです。
まずはドニックというブランドのことをきちんと知るところから始めました。自分が学生時代に憧れていたワルドナーやパーソン(ともにスウェーデン)がドニックの契約選手だということも、代理店を始めるまで知らなかったくらいでしたから。
弊社がドニック・ジャパンを立ち上げる前にも、日本国内でドニックの製品は販売されていましたが、自分たちが代理店になって初めて、こんなにもラケットやラバーの種類が豊富にあるということがわかりました。とにかくドニックの商品知識を得るために、ラケットとラバーの試打を繰り返し行いました。最初は商品知識を入れることでいっぱいいっぱいでしたね。
ドニック・ジャパンとして初めての大会売店は、2009年に横浜で開催された世界選手権で、そこでドニックというブランドを日本のユーザー様にきちんと知ってもらえるようにしました。
今でこそドニック・ジャパンとして1年の仕事のルーティーンは把握できているのですが、当時は全くわからない中で仕事をしていました。ドイツ本社とのやり取り、契約選手との関わりについてもわからず、大げさではなく今の10倍は時間がかかっていたと思います。
――大変な苦労があったんですね。ドニック・ジャパンとして軌道に乗り始めたと感じたのいつくらいからですか?
瀧澤 ひとつ転機としてあったのは、颯君(鈴木颯/現・愛工大名電高)と小学4年の時に契約して、その後の彼の全国大会での活躍によってドニックが広く浸透するようになったことです。颯君が中学生になってからは、大会の売店でも「ドニックでなんですか?」と聞かれることがなくなりました。
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