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インタビュー

【PEOPLE】「宮崎県と卓球に対する恩返しの気持ちで仕事をしています」宮崎県卓球協会理事長・吉薗孝雄

 昨年12月に宮崎・延岡市で行われた「JTTLファイナル4」。試合会場には、大会役員として奮闘するひとりの男の姿があった。宮崎県卓球協会理事長の吉薗孝雄だ。多くの協会役員とともに、宮崎県の卓球を支えている。

●選手から裏方へ。学連役員になって気づいた「裏方の大切さ」

ーーー吉薗さんが卓球をはじめたきっかけを教えて下さい。

吉薗孝雄(以下・吉薗):小学6年生の時に友達の家にあった卓球台で卓球をしたのが楽しかったんです。それで、地元の宮崎中学校で卓球部に入りました。当時、宮崎中は県で優勝している学校だったので、先輩たちも強く、憧れもあって卓球をやってみたいと思いました。

 

ーーー宮崎中での部活はどのような感じでしたか?

吉薗:当時の顧問の先生は宮崎の卓球界では有名な人でしたが、練習はスパルタというよりも自分たちで考えて取り組みなさいという感じでした。ただ、1年生の頃は毎日ランニングやトレーニングでほとんどボールを打てなかったんですよ。先輩たちが休憩している間しか打つことができなくて、ちゃんと台について練習できるようになったのは2年生になってからだったと思いますね。やめようとは思わなかったです。強くなって、チームの代表として団体戦に出たいと思っていたのは強く覚えています。

 

ーーー練習ができないと試合で勝てないですよね。

吉薗:1年生の頃はほとんど勝った記憶がないです。でも、顧問の先生や先輩方が教えてくれたこともあって、2年生の冬の県大会でベスト4に入りました。その時に、宮崎工業高校の丸田(哲生/現・宮崎県卓球協会会長)先生に声をかけてもらって、宮崎工業高に入学しました。

 

ーーー宮崎でも名門の高校ですね。

吉薗:宮崎工業高は県大会で優勝して全国大会に行くような学校だったので、中学の時と同じで1年生の頃は練習でほとんどボールを打てなかったんですよ。夏までは2軍でした。ただ、夏の1年生大会で優勝したので、秋からは1軍に上がって団体戦のメンバーとして試合に出てました。

 

ーーーでは、2年生の夏にはインターハイに?

吉薗:私の1つ下の学年に徳村智彦(87年インターハイ優勝)と田部和宏(89年インターハイ3位)が入学してきて、私は2年生の夏はレギュラーから外れました。2年生の秋からはまたレギュラーになって、3年生のインターハイでは学校対抗ベスト8、京都国体では3位になりました。

徳村、田部と共に出場した88年京都国体では少年男子で3位入賞。準決勝の埼玉戦1番では田中卓也(91年世界選手権日本代表)から1ゲームを奪った

 

ーーー高校卒業後の進路はどうしましたか?

吉薗:体育系の大学に行きたいという思いがあり、日本体育大に進学しました。

 

ーーー大学でももちろん卓球部に?

吉薗:大学では1年生の秋くらいまでしか選手をしていません。1年の秋からは、日学連(日本学生卓球連盟)と関東学連(関東学生卓球連盟)の役員をやっていました。

 

ーーーなぜ学連の役員に?

吉薗:1・2部校は各大学から1人ずつ学連役員を出さないといけないんですけど、行く人がいなかった。先輩たちがみんな断って、僕が最後だったんですよ(笑)。最初は嫌でしたが、一番最後というのもあって断りづらかったです。親にも相談してみて、「そういう経験をしていれば将来自分のプラスになるんじゃないか」と言ってくれて、そのまま卓球を続けるより違う経験をしたほうが自分のためになると思って引き受けました。

 

ーーー学連で仕事をしてみてどうでしたか?

吉薗:自分の考え方が変わりました。高校までは選手として卓球をやってきたけど、裏方から卓球を見るようになって、裏で支えてくれる方々がいたから自分は卓球ができていたんだなと思うようになりましたね。全国の学連の中で、どうしても関東学連が華やかに見えてしまう。しかし、日学連の役員をやってみると全国の学連がそれぞれ頑張っていて、日本の学生卓球界を支えていることがよくわかりました。

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