毎年、兵庫県で行われている、小学生の日本一決定戦、「ホカバ」こと全日本選手権(ホープス・カブ・バンビの部)。そこで報道委員長として現場をまとめ上げるのが、御年79歳、伊丹卓球協会の大久保勝だ。我々取材陣は、全国大会では地方の協会・連盟の方々に常々お世話になる身だが、彼ほど「おもてなし」の精神に溢れる報道担当者は珍しい。メディアがスムーズに取材できるのも、大久保ら裏方の努力があってこそなのだ。
昨年はコロナ禍のため中止となり、2年ぶりに開催された今年のホカバ。今や小学生にとっての聖地とも言えるグリーンアリーナ神戸に到着し、重いカメラバッグを引きながら、取材陣が待機するメディアルームへと向かう。部屋に入ると、「おぉ、お久しぶり!」といつもの笑顔が目に飛び込み、ひと安心。2009年からこの大会を取材し続けている自分にとって、ホカバのメディアルームに入る瞬間は、まるで実家に帰ってきたような不思議な感覚になる。そんなあたたかい気持ちにさせてくれるのは、大久保勝という“兵庫のおじいちゃん”のおかげだ。
6人兄弟の3番目として兵庫に生まれ、大分の別府で育った大久保。父はいくつかの仕事をしていたが、そのひとつがお菓子の製造と卸し。報道委員長として働く大久保の立ち居振る舞いは、協会スタッフというより、お客様を第一に考える“商人感”が強いと前々から思っていたのだが、ルーツはここにあったようだ。大久保自身も、「よく子どもの頃にお店の手伝いをしていたからそうかもしれないね」と頬を緩める。
卓球との出合いは、小学生の夏休み。毎年、母の実家がある愛媛に滞在し、晴れた日は外でめいっぱい遊び、雨が降ると地元のホールにある卓球台で2人の兄たちと打ち合うのが恒例となっていた。「やればやるほど上手になって、次第に兄にも勝てるようになるのがうれしかった」。徐々に卓球にのめり込むと、別府に帰ってからも、地域の卓球場で遊ぶ毎日を送っていた。
そんな大久保だから、中学入学後は真っ先に卓球部へ……となるかと思いきや、入部したのはまさかのそろばん部。今から60、70年も前のこと、中学校では先輩による「しごき」が当たり前だった。ただでさえ、他の新入生より卓球が上手な大久保は怖い先輩たちから目をつけられかねない。平和な中学生活を送るために、中学1年時は町の卓球場だけに足を運び、部活動は我慢。そして翌年、上級生が卒業してから晴れて卓球部に入部し、バリバリと練習に励むと、さっそく中学2年の時に別府市の新人戦で準優勝と結果を残した。
高校時代ももちろん卓球部。目立った成績は残せなかったが、とにかく卓球が好きで好きで仕方なかった。その後、兵庫の三菱電機伊丹製作所に就職。ここでも、大久保の頭の中は卓球でいっぱい。昼休みに社内の卓球台で打つのが日課だったのだが、「それができると思って、ワクワクして就職した」と言うのだから、根っからの卓球少年だ。
三菱電機伊丹製作所には、実業団チームもあり、当然ながらここで打ちまくりたかったわけだが、一般入社の大久保は最初は入部させてもらえなかった。しかし、所内の卓球大会で準優勝をすると、その実績が認められて入部。憧れの実業団チームで幸せな時間を過ごした。三菱電機には約6年勤め、その後は別府に戻って親戚の仕事の手伝いをしたり、父の手伝いで再び兵庫に戻ったりしつつ、この40年ほどは兵庫で活動をしている。
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