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ピンポン外交50周年 「荘厳な雰囲気の中で滑稽なこと」。文革で自殺した世界王者、勝利者操作

1959年世界チャンピオンの容国団。ペン表ソフト速攻という中国の速攻卓球の原型となった。香港出身だったことで、文化大革命の時に批判され、自殺に追い込まれた

 

 

容国団と傅其芳は何も

悪いことをしていないのに

批判され、自殺しました。

文化大革命は

大きな災難です

 

 65年リュブリアナ大会で3連覇を達成した荘則棟。しかし、66年に中国では文化大革命という政治運動が始まり、あらゆる国際大会へのスポーツの参加はストップ。また国内では卓球選手までもが批判の嵐にさらされることになる。

 この間、中国は67年と69年の2回の世界選手権に不参加。全盛期を迎えていた荘則棟はラケットも握れず、自己批判を強いられる絶望の日々を過ごしていた。

◇◇◇◇◇◇◇◇

66年の時に国内大会で3連覇し、国際大会でも1試合も負けなかった。しかし、この年、中国では文化大革命が始まりました。当時、私たちのように強い選手も批判の対象となりました。毎日のように批判され、暴力を受け、毎日反省文を書いていました。当時は国家主席の劉小奇や賀龍というスポーツ大臣も同様に批判を受けていました。

 

「荘厳な雰囲気の中で滑稽なことをしている」。それが文化大革命でした。

 

この間は何年間もラケットを持たずに卓球をできない状態でした。ずっと北京にいて、批判され、暴力を受けていたのです。人間的な生活はしていませんでした。とても絶望的な気持ちだったし、多くの人が自殺しようとしていました。私に対してのいろいろな批判と打撃はほかの人よりも大きなものでした。それは私が有名な人物だったからでしょう。59年の世界チャンピオンの容国団と私のコーチだった傅其芳は何も悪いことをしていないのに批判され、自殺しました。文化大革命は大きな災難です。

 

あの時の希望の光というのはとても小さく、ほとんど見えないものでした。もう一度卓球しよう、頑張ろうという気持ちは持てずに、まるで暗闇の中を歩いているようなものでした。

当時、運動選手は結婚してはいけなかった。68年、私は卓球への希望を見い出せず、結婚することにしました。結婚するということは選手にとっては引退するに等しいことだったのです。結婚して3カ月後に私は捕まって、半年間、監禁されました。それは刑務所ではなく、会社とか政府機関の地下室に閉じこめられたのです。妻は妊娠していた時期、同じように監禁されてしまいました。本当に文化大革命は大きな災難と言うしかありません。

 

当時、私も自殺を考えました。そういう政治運動に巻き込まれた多くの中国の人は自殺を考えたでしょう。

70年に周恩来首相が私のことを知って、監禁生活から出してくれました。それから試合をさせてくれたり、模範試合を見てくれました。周恩来首相は私たちにとても良くしてくれました。

再びラケットを持つことができるようになったけれども、それは100m競争で言えば、同じスタート地点から始まるのではなく、私たちは後退した地点からスタートするようなものです。体は太っていて、練習は全然してなくて、外国選手に対するデータもほとんどない。非常に難しい状況だったのです。

 

中国の卓球が強いのは世界各国と交流を持ったからで、交流がない限り強くはなれない。何年間も練習をしていないし、交流もない状態だったからレベルはとても落ちていたのです。いくら強くても、交流がない限り、レベルも落ちるし、それ以上は強くなれない。

当時、私も太っていて、お腹もかなり出ていた。その時は目標も何もなかった。こんな状況でも第31回世界選手権名古屋大会で4つの優勝を獲得したのは、逆の言い方をすれば、中国の技術がどれだけ進んでいたのかの証明です。

1970年のヨーロッパ遠征で女子は全部勝ったのですが、男子は全部負けました。男子は負けて帰ってきて、しっかりと反省し、相手選手に対しての練習方針を作って名古屋大会に向けて練習に打ち込みました。もし、ヨーロッパ遠征をしなかったら、名古屋では4個のタイトルは取れなかったでしょう。

負けたあとは、どうして負けたか、何をやって負けたかをしっかりと反省し、短い期間の中で、他国との距離を縮めて頑張ることをみんなで誓いました。

ただ、ヨーロッパの技術と選手の状況は少しわかったのですが、日本の情報はありませんでした。当時の世界チャンピオンの伊藤繁雄さんがどういうスタイルなのかもわかりませんでした。私たちは全員が文化大革命前の選手だったので、捕まって監禁されたり、批判されたり、暴力を受けたりと、練習どころではなかったのです。

 

71年の名古屋大会に向かう前に、毛沢東主席から「友好第一、試合第二」という支持を受けていました。

当時はアメリカが台湾を支持していて、政治的にもいろいろなことを要求されました。あの時にアメリカが台湾の蒋介石を支持して、アジア卓球連盟の中でも、ふたつの中国を認める陰謀があり、日本の右翼が中国大使館の前で中国の国旗を焼いたりする事件がありました。

それに対して、毛沢東主席から「我が中国チームは名古屋へ行くべきだ。何人か死んでも仕方ないことだ。死ななければもっといい」というような指示があり、「苦しむことを恐れず、死をも恐れず」という毛沢東語録の引用もありました。

名古屋に行く前は昔のように誰と当たって、どう戦うのかということをわかって行くのではなく、誰と戦うのかもわからない状態で向かったのです。

 

当時、ヨーロッパ遠征から帰ってきて、監督、コーチから話を聞かれたことがあります。「あなたはヨーロッパ遠征と今度の日本行きに関してどう考えていますか」

私はこう答えました。

「今回、ヨーロッパ遠征で男子は負けたけれども、負けたことはいいことかもしれない。相手もわかって、それに対する作戦を練ることもできます。女子は今回勝ったけれども、強い日本チームは出ていなかった。勝ったことでもしかしたら世界選手権で失敗につながる可能性もあります。男子は負けたけれども、私たちにとっていいことだし、新人の梁戈亮もいますから、彼を使うこともできます」。

世界選手権で実際に男子は団体で勝ったけれども、女子は日本に負けました。そして、この71年の名古屋大会は試合とは別に、様々なことが中国チームには起こりました。

〈次号へ続く〉

 

◎そうそくとう/ツァン・ヅートン

1940年8月4日、中国・揚州生まれ、北京育ち。61、63、65年世界チャンピオン。有名な中国とアメリカのピンポン外交(71年)での中心的な存在となり、その後、33歳でスポーツ大臣まで上りつめるが、76年の江青・毛沢東夫人ら四人組失脚とともに大臣を解任され、失脚した。2002年12月、北京市内に『北京荘則棟・邱鐘恵国際卓球クラブ』をオープンさせたが、2013年2月10日に逝去、72歳で生涯を閉じた

 

2002年オープンした『北京荘則棟・邱鐘恵国際卓球クラブ』のフロアに立つ荘則棟

 

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