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ピンポン外交50周年 「荘厳な雰囲気の中で滑稽なこと」。文革で自殺した世界王者、勝利者操作

書道の達人、荘則棟筆「剣者国之神 膽為球之魂」

 

 

3回目の優勝の時、

李富栄が負けてくれた

と指摘されましたが、

それは事実です

 

 見事な戦術転換で65年リュブリアナ大会の団体戦で敗れた高橋浩に、シングルスで勝利を収めた荘則棟。そこには彼の勇気と幅広い技術を見ることができる。

 そしてこの大会で3連覇を達成した荘則棟の決勝の相手は李富栄だった。この決勝は観戦した人の間では「勝利者操作」、つまり李富栄が荘則棟にわざと負けた試合と囁(ささや)かれた。

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61、63、65年と3大会連続、決勝で李富栄に勝ちました。私は李富栄とユースチームの時から毎月1回リーグ戦をしていて、負けたことはありませんでした。1軍の部内リーグ戦でも決勝で2回やって2回とも勝っています。

初めて彼とやったのは私が17歳で彼が15歳の時で、それから私が勝っていました。最後に彼とやったのは66年の全中国大会で、上海でやった時です。上海は彼の地元ですが、シングルスとダブルスの決勝で彼と対戦し、その時も私が勝ちました。

 

私は国内でも3連覇していて、世界選手権と同様に3回とも決勝で李富栄とやっています。リュブリアナ大会の決勝。その時に上層部から「荘則棟が勝つ」という命令が下りました。

中国チームは一致団結して、国際大会で頑張る。中国が同士討ちになった時に、外国選手に自分たちの手の内を見せないようにしなければいけなかったのです。

いろいろな人から3回目の優勝は「李富栄が負けてくれた」と指摘されましたが、それは事実です。

しかし、私、荘則棟は世界で3回優勝するだけの力はもともと持っていたと自分では思っているのです。そして、1971年の名古屋での第31回世界選手権まで、私は中国男子チームのエースだったのです。

 

卓球が国技になった

政治的な原因は

ピンポン外交です

 

 中国では卓球は「国球」と呼ばれる。

 これはいわゆる「国技」という意味だ。現在でも、サッカー、バスケットボールなどが人気スポーツとして民衆の関心を集めても、卓球は国球として特別視されている。ピンポン外交という言葉も中国から出てきた言葉で、このピンポン外交によって、中国はアメリカを皮切りに、世界の国々に交流の手を差し出した。

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卓球が中国の国技になったのは、団体の力でそうなったのであって、一個人の力では国技にはなりません。中国の卓球が国技になったのは、もちろん成績が特別に良かったという要素もありますが、卓球が国技になった政治的な原因はピンポン外交です。

ピンポン外交は言葉通りの軽いものではない。中国の民衆の中ではピンポン外交の認識もそのこと自体も大きな反響と意味を持っていて、大きな出来事として記されています。ほかのバスケットボール、バレーボール、サッカーという人気のあるスポーツはありますが、国に対して役に立ったわけではない。

 

ピンポン外交で、アメリカチームが中国を訪問したという事実は東西の冷戦にひとつのピリオドを打ち、新しいスタートを作った意味を示しています。毛沢東、周恩来の時代は閉鎖的で、鄧小平、江沢民の時代は開放的、という言い方をみなさんしますけれど、実際にピンポン外交は中国の改革・開放の時代につながっていったと私は思います。

 

ピンポン外交が始まる前に中国と国交のある国は全部で32でしたが、ピンポン外交でアメリカチームが中国に来たあとに、1年間に100以上の国と外交を結んだのです。毛沢東と周恩来の後期は、改革・開放路線につながり、鄧小平、江沢民はそれを推進してくれたと言えるのではないでしょうか。本当の意味で卓球が国技と言われるようになった理由はここにあります。勝ったから国技になったのではなく、ピンポン外交があったから国技になった。よくアメリカに住んでいる華僑の人に言われます。「アメリカにこんなに早く来れたのはあなたのお陰です。もしピンポン外交がなかったら私たちのアメリカ行きはいつになったかわからない」と。

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