●「点」ではない、日本代表手話通訳としての仕事
--取材の前に、日本代表で井出さんと一番付き合いが長いであろう亀澤理穂さんに「井出さんって、ベンチでもいつも通り穏やかなの?」って聞いたら「めちゃめちゃ熱い」って教えてくれて(笑)。
井出 (笑)。それは熱くなりますよ。気持ちとしては私も一緒に戦っています。理穂と私の娘が同い年ですが、理穂が高校生の頃から知っているし、娘の成長を見守っているような感覚でもあります。
--長く携わることで、選手の成長を見届けられるっていう喜びもありますよね。
井出 はい、それはあります。1人の人間とずっと関わり続けるって、通常の現場ではあまりないんです。例えば「〇月〇日〇時 病院 内科の診察」といった依頼が来て、当日、その病院でろう者と待ち合わせて、診察や検査や薬局での通訳をして、お疲れ様でしたという流れになりますが、次の診察は、別の通訳者が担当することがほとんど。その後、その方が快復したかどうかを知ることもできないので、手話通訳の仕事は「点」だなといつも思います。だけど、協会での手話通訳の仕事は、選手をずっと見続けています。選手の成長を感じることが出来る。そういう喜びがあります。
--協会の手話通訳として活動される中で、どんなことが印象に残っていますか。
井出 3つあります。まずは初めて帯同した2009年台湾でのデフリンピック。衝撃的でした。大会の規模が大きくて、いろんな競技、様々な国や地域の選手が参加していて、みんなが手話で話している。その光景がとても印象に残っています。
2つ目が2012年に東京であった世界ろう者卓球選手権大会。日本で初めて開催されるろう者の国際スポーツ大会ということで、多くの方々がボランティアで大会を盛り上げてくださいました。遠方から東京に駆けつけて、宿泊してまでボランティアに通ってくださる方もいる、本当に手作りの大会でした。裏方の皆さんやボランティアの皆さんの努力や苦労を間近で見ていて、その中で選手が頑張って、センターポールに日の丸を掲げてくれた時は本当に感動しました。
--2012年の時は、地元開催だからこそ見える部分もあったというか。
井出 海外での大会だと、なかなか運営までは目がいかないですよね。会場設営からセッティング、受付に会場への道案内まで……うん、思い出しても涙が出そうなくらい、皆さん献身的に支えてくださいました。会場には知った顔がたくさんあって、選手たちも力をもらったと思います。
--そして3つ目が…
井出 最後はブラジルであった去年のデフリンピック、私が現地でコロナに感染したこと。その時は今、こうしてデフ卓球の世界に戻ってこられるなんて考えられないほどの絶望でした。
--絶望、ですか。
井出 大会参加者の中でコロナの感染者が増加して、日本は全競技で途中棄権することになりました。帰国前日にPCR検査を受けることになっていて、その検査で「陽性です」と。“オリンピックは平和を守り パラリンピックは勇気を生み デフリンピックは夢を育む”と言います。デフリンピックはデフ選手たちの夢の大舞台です。コロナ禍において、選手はどれだけの我慢を強いられ、耐えてきたのか。その選手と共に戦ってきた…と思っていた私自身が、多くの選手の夢を奪ってしまった。泣かせてしまった。辛すぎる現実に打ちのめされました。初めて「絶望ってこういうことか」と思いました。
長期の大会は通訳も体力勝負なので、食事もしっかり摂るようにしているんですけど、この時はもう頑張れなくなりました。気持ちが切れてしまいました。話す相手もいないし、声を出すこともない。自分が自分じゃないような感覚。
●絶望から救ってくれた「おにぎりと卵焼き」
--話す相手がいたら、少しは気も紛れたのかもしれないですけど…
井出 心配してくださる方々には、逆に言えませんでした。だから、家族にもその状況を話していません。陽性と診断されて現地に残った他の選手やスタッフと、夜に症状の軽いメンバー同士でZoomを使って話していました。それが唯一、外部とのコミュニケーションでしたね。誰もが「これからどうなるんだろう」と不安を抱えていました。
--他の時間はどう過ごしていたんですか。
井出 何もしませんでした。隔離されていたホテルの11階の窓から、空を眺めていました。オレンジ色の夕陽がしみいるような美しさでした。ちょうど、飛行機の離着陸が見えるんですけど、飛行機を見ると「いつ日本に帰れるのかな…」と不安になり「帰るのが怖い」とも思う。何も食べたくないし、友だちからの連絡にも返事ができないような日が続きましたが、気持ちをほぐしてくれたきっかけがありました。
--はい。
井出 在ブラジル日本人・日系ブラジル人婦人会の方々が、おにぎりと甘い卵焼きを差し入れてくださって。もう、泣きました。おいしかったです。ひとりじゃないと思えました。
--日本食がブラジルで井出さんを救ってくれた、と。
井出 日本食も人も温かかったです、本当に。力をもらいました。それでちょっと気持ちが前を向きました。
--結局、ブラジルにはどれくらいいたんですか。
井出 もともとデフリンピック自体が2週間あり、そこから隔離でさらに2週間いたので1カ月です。4月の末に日本を出て、帰国できたのが5月下旬でした。隔離から解放された後も飛行機のチケットがなかなか取れなくて、旅行会社の方が必死にキャンセルを探してくださいました。
ただ、帰国してからも、デフリンピックとか、卓球の話題には触れませんでした。しばらくは辛かったです。ある日、電車の中からきれいなオレンジ色の夕陽が見えました。その際窓ガラスに映った自分が泣いていて動揺しました。そんな中でも、日本で2025年にデフリンピックが開催されることが決まって、ようやく「自分が還元できることを探していこう」と気持ちが切り替わりました。
--やっぱり、次のデフリンピックが日本で行われることは井出さんにとっても大きかったですか?
井出 すごく大きいです。パラリンピックは皆さん知っていると思うんですけど、デフリンピックの認知度は2021年時点で16%くらいしかないんですね。日本でデフリンピックが開催されることは、皆さんに知ってもらう大きなチャンスだと思います。まずはデフリンピックを知ってもらって、ろう者とのコミュニケーションを知ってほしい。そして手話にも興味を持ってほしいです。
周りが全員ろう者で、その中に1人だけ手話ができない人がいたら、手話通訳はその1人のための通訳になりますよね。だから、手話はけっして聞こえない人だけのものではないんです。手話に対する敷居を低くする意味でも、デフリンピックは良い機会だと思います。
--僕もデフ卓球の取材をする中で、井出さんに助けてもらったり、手話がろう者だけのものじゃないっていうのは実感としてあります。
井出 初めてデフリンピックに行った時、周囲がみんな手話で会話している中で、監督だった佐藤真二さんが「ここではオレたち(聴者)がマイノリティだよね」って話していて。そういうことなんですよね。
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