二つ目の「チェンジ」は、全日本選手権で優勝する前だった。全日本選手権で決勝に2回進んでいたが、一度は大学の後輩の齋藤清に、もう一度は小野誠治さんに完敗していた。30歳を目前に控え、「引退」の文字が頭をかすめた。全日本選手権で優勝するためには齋藤、小野という左利きに勝たなければいけないのに、勝てない。「サウスポー恐怖症」とも言える心理的な壁があり、左利きというだけで他の選手にも苦戦したり、負けることもあった。
相手が右利きだと、私は台についてバックショートも使いながら攻めていけるのに、相手が左利き、特に小野さんにはバック対バックから先にフォアで回り込んで攻めようとしたために、平行足のスタンスが右足前のクローズドになり、フォアハンド主戦のようなプレースタイルになっていった。実際には、自分にはそれほど脚力がないのに、台から離れたラリーが多くなり、「サウスポー恐怖症」によってプレースタイルが崩れていった。つまり、越えようと思っていた壁が負担となり、より深い谷底に落ちていくという状態だった。調子を落とせば落とすほど、「引退」を意識し、「もう自分の卓球人生は長くないな」と思い、切羽詰まった心境になっていた。
そこで何を変えたのか。まずラバーを変えて気分を一新した。それまではスピードグルーを塗っていたが、学生時代のようにグルーなしで皮付きラバーを使うようにした。そうしたら、打球感覚が良くなり、フォームが安定してきた。またその頃は、左利きだけでなく、スタイルが崩れて右利きにも勝てなかったから、こうなったらもうスタイル云々じゃないと練習内容も原点に戻った。
加えて、そんな時期に、ひとつの転機となったのは、当時所属の協和発酵卓球部に期待の新人、松下浩二・雄二の兄弟が入ってきたこと。大学卓球界のスターとして、すでに世界選手権の日本代表にもなっていた二人が入部してきて、当時チームのキャプテンだった私はうれしかった。「何とか二人を強くしよう、練習の相手をしよう」という思いがあり、実際に二人の相手をするうちに消えかけていた卓球の楽しさを再び味わうことができ、新鮮な気持ちを持つことができた。
そして、自分自身は、選手としての初心に戻り、基本練習を行い、さらに食事の摂り方にも気をつけ、アスリートとして体力トレーニングに積極的に取り組むようになった。
そういうものを積み重ねたうえで臨んだ91年(平成3年度)の全日本選手権。それまでの2回の決勝では、決勝に行けたことに満足していたのに、その大会では最初から優勝を狙いにいき、苦戦の連続だったが悲願の優勝を果たすことができた。
全日本の決勝で2回負けた頃には「おまえは人が良いから勝てないんだ」と、のべ何百人の人に言われていた。確かに自分は勝負ごとに向いていないのか、齋藤のような個性や自己主張や、執念がないからかもしれないと、自分の性格に否定的になっていた。ところが、会社の先輩に「渡辺らしく卓球を極めればいい、自分らしく戦えばいい」と言われたことで、「今度の全日本は自分を作ったりしないで、あいつは万年2位と言われようが自分らしく戦おう」と吹っ切れた。そういう心理面での「チェンジ」も優勝できた要因になった。
私は崖っぷちに立ったことで「変化」できた。変わらなければ、転機は訪れなかった。低迷することは誰でもあるはずです。その時に、勇気を持って一歩踏み出し、変わることで、新しい道が切り開けるのです。選手は誰でも潜在力を持っている。自分が変わることで、眠っている潜在力が目を覚ますことがあります。
わたなべ・たけひろ
全国中学校大会で優勝、熊谷商高時代にはインターハイで三冠王となる。1991年全日本選手権シングルス優勝、男子ダブルスと混合ダブルスでは7回優勝。日本代表として五輪は2回、世界選手権には4回出場している。現在は中部大学の准教授に就任し、スポーツ教育科で体育方法学(卓球競技)を専門にしている
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