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「変えて」強くなる 齋藤清「意識革命で変えた4つのこと」

昭和58年(1983)度全日本選手権大会で優勝した時の齋藤清

 

自己改革によってすぐに成果が出た。

中国選手に勝ち、アジアカップ優勝

 

  「変える」ことに悲壮感はなかったし、切迫感もなかった。むしろ、卓球を始めた頃のような楽しさと新鮮な気持ちで、新しいことをやる喜びを感じていた。気持ちと行動は非常に前向きだった。日本チャンピオンとしての誇りと使命を持って世界で戦ってきたが、「今までの卓球に対する考え方ではもうダメだ。新しい考え方で卓球に取り組まなければ」と強く思った。すなわち「卓球の意識革命」をしなくてはいけなかった。

世界卓球の情勢は日々変化し、新しい技術を使う、新しいプレースタイルで活躍する選手が多くなっていて、世界の情報を把握していないと世界では勝てないと痛感した。意識革命後は、画期的な練習方法で、新しい卓球・技術で世界に挑む喜びでいっぱいだった。

意識革命したことの成果はすぐに現れた。89年4月の世界選手権後、6月のアジアカップが中国で行われ、そこで中国の3選手を連破し、優勝できた。1回戦で陳志斌を3-0、準決勝の陳龍燦を3-2、決勝の馬文革を3-2で破って、優勝した。これは用具、打法、練習方法、バック強化が実った結果だった。自分でも考えられないようなプレーができた試合だった。レシーブにおいても、指先の力でレシーブをすることができたし、スピード接着剤を使用したことでスイングもコンパクトに振ることができた。非常に短期間であったけれども、世界選手権後の集中的な訓練と改革によって、新しいプレースタイルを作ることができた。

実は、83年の世界選手権東京大会の時の合宿で、荻村伊智朗さん(元国際卓球連盟会長・世界選手権で12個の金メダル獲得)に「オールラウンドのプレースタイルで、バックショートを利用した練習をしないのか」と言われ、全面での不規則なボールに対しての処理の練習をしたが、見本のプレーヤーもいないし、どうしていいかわからなかった。当時は、荻村さんの言っている意味がよく理解できていなかったのだ。

ところが、6年後の89年になって、初めて荻村さんの言っていたことが理解できたし、83年に言われたことが自分の卓球に当てはまった。すでに世界では当たり前のプレーかもしれないが、荻村さんは世界の卓球の先を見据えていたのかもしれない。そういう意味で、プレーヤーを勝たせるためには、指導者は先見性を持つことも大切な資質だと思う。

当時、私は全日本チャンピオンだったので、一番上に立つ者としての責任と使命があった。全日本選手権で勝つことが目標ではなく、世界で勝つことが目標だったし、それを目指さなければ何の意味もない。逆の言い方をすれば、世界で勝つプレーを目指していれば、日本で負けるわけがないと強く思っていた。こうした卓球への姿勢を他の日本選手に示すことも大切だと思っていた。

全日本チャンピオンを目指している人は多くいたはずだ。だが、世界を目指す人、世界でメダルを獲ろうと真剣に考えていた人は何人もいない。当時の私は、日本で勝つことではなく、世界で勝つことが自分への評価だった。

26歳で「変えた」時には、「今のままの卓球に対する考え方では100%ダメだ」という思いがあった。選手というのは常に自分の卓球や意識を分析する必要がある。しかし、「これではダメだ」という気持ちが100%なかったら思い切り変えることはできない。どこかで、「この部分は自分は大丈夫だな」と思っていたら、選手は自分の卓球を変えることは難しいものだ。

私は、本当にそれまでの卓球に対する考え方を改め、新しい考え方で、生まれ変わりたいと思ったから、前向きになれたのだと思う。選手は、長くやっていれば、必ずどこかで壁(悩み)にぶち当たるし、実績があると変えることが難しいし、なかなか乗り越えられない。勇気が必要になる。本心から「今のままではダメだ」という思いがあってこそ、その高い壁を乗り越えられるのではないだろうか。

意識改革するまでの自分は「世界で勝ちたい」「世界を目指します」と強く思っていたが、本当は「世界で勝てたらいいな」というくらいの気持ちだったのかもしれない。ところが、26歳の時からは世界で戦える技術と戦術が備わり、本気で世界のメダルを狙った。世界で勝ちたいと強く思った。世界のトップクラスの選手に勝てることを自分の楽しみにし、励みにした。実際には、改革後2年で現役を引退し、世界でメダルは獲れなかったが、アジアカップ優勝は、改革の産物と言えるだろう。

20歳で全日本チャンピオンになって、連覇しながら、日本を背負ってきた。周りに期待されて、その期待に常に応えようとする自分がいたが、それはある意味、プレッシャーとして心の奥にあった。日本の頂点、一番としての義務と使命を背負いながら走っていた。

全日本チャンピオンとして世界で勝つという結果を求められる。「頑張ります」だけでは周りは納得してくれない。精一杯頑張るが、期待に応えられず、果たせない悔しさだけが残る。そして、実際に世界選手権の舞台で限界を感じた。だからこそ、26歳の時に自分を変えたのだ。変えた後、さらに強くなり、全日本選手権ではさらに優勝回数を伸ばすことができた。

目標だった世界一のメダルは達成できなかったが、意識革命したことで自分が抱いていた「基本練習とは何か」という疑問を解決することができ、新しい練習方法を確立できた。

今では当たり前になっている練習方法だが、現在でも卓球を続けられる自分自身の礎になっている。

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齋藤清[全日本選手権8度優勝]

全日本選手権男子単で4連覇を含む8回の優勝を飾った。

89年アジアカップ優勝。ソウル五輪日本代表。

全日本選手権(一般の部)通算勝利101勝を達成(平成22年度)

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