卓球王国 2024年3月21日 発売
バックナンバー 定期購読のお申し込み
アーカイブ

最強の男 張継科はなぜ暴れるのか!?

 

ぼくにとって最も尊敬すべき

プレーヤーは馬龍だ(張継科)

 

張継科の導火線に火を点ける、いくつかのキーワード。「逆境」という言葉も、そのひとつに数えられるだろう。

たとえばロッテルダム大会で初優勝した時、彼は男子シングルスに出場するのは初めてだった。09年世界選手権の代表選考会『直通横浜』で鐘金勇コーチのタイムアウトの指示を無視したことが問題視され、好成績にも関わらずシングルスにエントリーされなかったからだ。横浜大会での男子ダブルス3位、混合ダブルス2位という張継科の成績を記憶しているファンはほとんどいないだろう。

ロッテルダム大会を迎えた時、チームのエースは09年世界チャンピオンの王皓、2番手は馬龍。馬琳や王励勤もまだ健在で、張継科は優勝候補の一角であっても、筆頭ではなかった。その下馬評をひっくり返し、自らの実力を証明することが、張継科にとっての大きなモチベーションだった。そんな時ほど、この男は燃える。時には自ら周囲に向かい風を起こし、その逆風を帆に受けて推進力に変えていく。

昨年のワールドカップも同様だ。張継科は昨年4月のJA全農世界卓球・東京大会の男子団体決勝2番でオフチャロフ(ドイツ)に敗れ、メディアや卓球ファンから実力を疑問視する声も上がった。

ワールドカップは張継科にとって、世界選手権の団体決勝で敗れた汚名を返上する絶好の舞台だった。そして見事に、決勝で馬龍をゲームオール12︱10で下し、2回目の優勝を果たした。

「東京大会の後、中国で張継科の実力に疑問の声が上がったのには、もうひとつの理由があります」。そう指摘するのは、中国の卓球雑誌『世界』の女性記者・陳思婧氏だ。

「張継科はこれまでに優勝した五輪・世界選手権・ワールドカップで、一度も馬龍と対戦しなかった。張継科は大満貫(※)を達成しましたが、実力的には馬龍のほうが上だと考えている卓球ファンも多い。優勝後にあんな行為に出たのは、張継科がそれだけ大きなプレッシャーを受けていたからだと思います。彼を取材した時、『フェンスを蹴飛ばした時は頭が真っ白だった』と言っていましたから」

かつて張継科に圧倒的に分が良く、張継科の天敵とさえ言われた馬龍。その馬龍と相まみえたワールドカップの決勝は、張継科にとって特別な意味を持っていた。

張継科は同い年で唯一無二のライバル・馬龍に対して、こう語っている。

「ぼくにとって最も尊敬すべきプレーヤーは馬龍だ。彼に勝つことでようやく喜びを得られる。もちろん他の選手でも勝ったらうれしいし、負けたら悔しいけど、それは馬龍との試合ほどじゃない。きっと彼もぼくと同じ感覚を抱いているんじゃないかな」(※1)

張継科の競技人生のターニングポイントを振り返っても、そこには常に馬龍の存在がある。2010年に行われた世界選手権団体戦・モスクワ大会の代表選考会「直通モスクワ」の第2ステージで、張継科は馬龍をゲームオールの13︱11で破り、自力で団体メンバー入りを決めた。

モスクワ大会では団体決勝のドイツ戦3番に出場。トップで馬龍がボルに敗れて緊迫感が漂う中、勝利を収め、ここから一気に世界の頂点へ駆け上がった。

12年ロンドン五輪ではこんな逸話もある。男子シングルス4回戦で、サムソノフにゲームカウント2︱3でリードされ、敗戦の瀬戸際まで追い詰められた張継科。なんとか逆転勝利をおさめたが、準決勝のオフチャロフ(ドイツ)戦を前に大きな重圧に直面していた。

「準決勝当日の朝もプレッシャーは大きかった。でも、馬龍と何ゲームか試合をした時に、ぼくは全部勝った。世界で一番苦手にしている相手にね。そして『オフチャロフには必ず勝てる』と感じたんだ。『おれに勝てるヤツなんてこの世界にひとりもいない』と思ったよ」(※2)。

2016年のリオデジャネイロ五輪でも、現時点で張継科と馬龍はシングルスのふたつの出場枠に最も近い位置にいる。

ロンドン五輪で大満貫を達成し、「燃え尽き症候群」に陥っていた張継科に再び火を点けたのは、男子選手では史上初となる「双満貫(大満貫を2回達成すること)」への挑戦だった。その偉業の前に立ちはだかる最後の難関は、やはり馬龍だろう。

 

2011年世界選手権ロッテルダム大会で優勝した時の張継科。優勝を決めた瞬間にユニフォームを引き裂いた。良い子のみなさんは真似をしないように

 

背中のタトゥーも話題となった

 

2011年世界優勝以後、チキータよりも強烈な台上ドライブからの攻撃で世界の卓球を変えた

 

彼には〝温かみ〟を感じます。

インタビューの時も真面目で

協力的ですね(陳思婧氏)

 

張継科の顔は、左目のほうが右目よりも少しだけ小さい。

これは彼がまだ子どもだった頃、父親に叱られて泣くたびに、ラケットを持っていない左手で左目の涙をぬぐっていたからだという。軍隊に所属しながらプロ卓球選手として活躍した父・張傳銘さんの指導はまさに「軍隊式」。2回までは口で教えるが、3回目には手が出る。練習やトレーニングを予定どおりこなせなかった時、罰として張継科をランニングさせ、後ろから父がバイクに乗って追い回したという、信じられないような話もある。厳しい父に鍛えられた「親子鷹」のストーリーは、これまでの中国の卓球界ではあまり見られなかったものだ。

もともとは息子をサッカー選手にするつもりで、張傳銘さんがブラジルのサッカー選手・ジーコから名前を取り、息子に「継科」と名づけたのは有名な話。ひと際大きい泣き声を聞いて、「肺活量が多い証拠だ。きっと良いスポーツ選手になる」と考えた父もまた、根っからのアスリートだった。

中国サッカーの将来性に見切りをつけた張傳銘さんが、家に卓球台を置き、張継科に卓球を教えるようになったのは5歳の時。学校が終わると毎日欠かさず3時間の練習で、張継科に休みが与えられたのは旧正月の元旦1日だけ。練習が休めるのは40度を超える熱を出した時だけ。今でも張継科にとっては少々怖い父親だ。

「パワーとボディバランス、そしてボールタッチ。どれも素晴らしかった」と父は息子を評する。「私は何をやるにしても中途半端にはやらない。完璧にできるまでやりとげる。だから息子への要求は相当厳しかったと思う」(※3)。

張継科の抜群の身体能力と体幹の強さは、幼い頃からのトレーニングと猛練習の賜物だ。しかし、長く過酷なトレーニングを積んできた男の肉体は、あちこちに古傷を抱えている。そしてビッグゲームを迎えるたびに悲鳴を上げる。

これまで張継科は肩に5回、腰に2回、痛み止めのブロック注射を打っている。昨年のワールドカップの前にも腰痛が再発し、腰に注射を打って大会に臨んだ。

彼のプレーは時に「無気力だ」「試合を投げている」と批判されるが、そういう時は肩や腰に痛みを抱えているケースも多い。昨年の全中国運動会の準々決勝で樊振東に完敗した時も、右肩の痛みが相当強かったと聞いた。

今、張継科が最も恐れるものは、選手生命に致命的なダメージを与える故障。研ぎ澄まされた刃は、ある時不意に折れてしまわないとも限らない。

試合での不敵なパフォーマンスや、背中や右肩の入れ墨、格下に取りこぼすことなどから、少しばかりヒール(悪役)の印象もある張継科。しかし、これまで彼に何度もインタビューを行ってきた『世界』の陳思婧記者は、張継科の性格を「暖(温かい)」という一文字で表現する。

「試合では勝負どころになるほど強気のプレーをする張継科ですが、普段の練習や取材の時には、私は彼に〝温かみ〟を感じます。取材の申し込みのショートメールには、すぐ返事をしてくれるし、インタビューに対してもとても真面目で協力的。これほど多くのタイトルを手にしても、彼への印象は少しも変わりません」

ワールドカップから帰国した翌日、渦中の人となった張継科は、馬龍と「一杯やった」ことを明かしている。

「自分の行為がチームに悪影響を与え、無意識のうちに馬龍を傷つけてしまったことを感じた。だから馬龍には『本当にすまなかった』と謝ったよ。そして何杯も酒をすすめたんだ」(※4)

孤高のチャンピオンも、コートを離れると26歳の若者に戻る。

世界にその名を轟かせたロッテルダム大会からまだ4年。しかし、張継科に残された時間は決して長くない。

引退した王励勤や馬琳、王皓はそれぞれの母体チームの強化責任者や監督になり、将来的には国家チームで指導を行う道が見えているが、張継科はコーチになることは考えていないと言う。

張継科はロンドン五輪の際、地元メディアに対して「子どもの頃、卓球は好きじゃなかった」とコメントしている。彼はラケットを胸に抱いて寝るような卓球小僧ではなかったし、コートは敗れれば罰を受ける「戦場」だった。

強烈な自我と自尊心で、その戦場を生き抜いてきた張継科が愛しているのは、卓球ではなく自分自身なのだろう。だからこそ、徹底的にプロフェッショナルでいられる。ウェアを引き裂き、フェンスを蹴破るのは、彼にとって卓球はあくまで自分を演出する舞台装置だからだ。プレーヤーとしてのピークを過ぎ、舞台を下りたら、もう裏方に回ることはない。

リオデジャネイロ五輪の男子シングルスで、もし張継科が2連覇を達成したら?

「さあ何をやらかすんだ」と色めき立つカメラマンを前に、一体どんな行動に出るのか。もうバッドマナーはご勘弁願いたいが、まだしばらくは「張継科劇場」から目が離せそうにない。                     (文中敬称略)■

 

11歳の時に、北京を訪れ、天安門広場での記念撮影

●チャン・ジィカ

1988年2月16日生まれ、中国・山東省出身。卓球選手だった父の影響で5歳から卓球をはじめ、15歳で男子ナショナルチームに入る。10年世界選手権団体戦で優勝メンバーとなって頭角を現し、11年世界選手権でシングルス初出場・初優勝。同年のワールドカップ、12年ロンドン五輪を制し、史上最速での「大満貫」を達成した。13年世界選手権、14年ワールドカップでも優勝し、大満貫を2回達成する「双満貫」に王手をかけている。右シェーク両面裏ソフトドライブ型、世界ランキング4位(15年1月現在)

※大満貫=五輪・世界選手権・ワールドカップの3大タイトルを獲得すること。

中国卓球界では最大の栄誉とされる

※1 『乒乓』2014年11月号

※2 『乒乓世界』2012年9月号

※3 『乒乓世界』2013年8月号

※4 『乒乓世界』2014年12月号

        上記より一部転載

 

関連する記事