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馬龍「戦いの場から逃げるくらいなら、 自分のことを信じよう」

「戦いの場から逃げるくらいなら、

自分のことを信じよう」

ぼくは自分に逃げ道を作らなかった。

 

●–決勝後に取材を受けた時に言っていましたが、あの優勝のパフォーマンスは、事前に考えていたんですか?

 ぼくはただ、自分を見てもらいたかっただけなんだ。台の上に飛び乗ることは前から考えていたよ。

ぼくは2006年から世界選手権に出ていて、みんなずっとぼくに期待してくれていた。期待はより高まっていったし、ぼくも良いプレーをしたいという思いが強くなっていった。でもいつもうまくいかなかった。そこで味わった感情はぼくをひどく自虐的にしたし、たくさんの人たちに申し訳ないと思った。

「今、ついに世界チャンピオンになれたんだ」。あの卓球台の上でそう思った時、少しの間、頭が真っ白になってしまった。ただ、意外だったこともある。ぼくは卓球台の上から方博と握手しようなんて考えていなかった。この場を借りて彼に謝りたい。今考えてみると、あのやり方は確かに彼に対して失礼だった。

 

●–表彰台では、ずっと優勝カップを抱き締めていました。あの時はどんな心境だったのでしょう?

 実は優勝した後、ぼくは一瞬すべてが夢なんじゃないかという感じにとらわれた。想像していた、優勝したあとのすごいイメージとは違っていたから。

優勝カップを掲げた時は、団体の優勝カップよりずっと小さく感じた。去年の東京大会で団体優勝した時、劉国梁監督がぼくに優勝カップを持たせてくれたけど、その時は本当に大きく感じたからね。だから今回は「こんなに小さいの?」と思ったんだ。自分が想像していたものとはかなり差があった。

 

●–優勝カップは想像より小さかったかもしれませんが、チャンピオンになったことの意義はやはり大きいですか?

 今回の優勝は自分にとって、ようやく結果を出せたという思いが強い。これまでは、大きくリードしながら逆転される試合がたくさんあったけど、大会を通じて、ぼくはより明確に自分というものを知ることができた。今までより良いプレーもできた。このタイトルはこれまでの数多くのつらい記憶をぬぐい去り、より強いメンタルをぼくにもたらしてくれるかもしれない。

 

●–蘇州大会では、自分に100点をつけられますか?

 90点だね。自分に100点をつけることは永遠に不可能だ。今でも決勝のことを思い出すと、ちょっと怖くなってくる。もし相手が張継科だったら、あるいは許昕や樊振東だったら、ぼくが3ー1でリードした時に守りに入ってしまったあのミスを、絶対に放っておくわけがないから。本当にあぶなかったと思う。それに、もし彼らが相手だったとしたら、ぼくは第6ゲームに息を吹き返すことができたかどうか。

だから自分にはまだ足りないところも多い。大会序盤の試合では、ぼくのプレーはあまり良くなかったし、ダブルスでも負けている。そういうところは減点しないといけないね。

 

●–総括すると、今回の優勝のカギになったものは何でしょう?

 もっとも大切なことは、ぼくに「チャンピオンになりたい」という夢があったことだよ。たとえこれまでの4回の世界選手権で全部負けていても、優勝したいという思いはとても強かった。

ぼくは前、バドミントンの林丹(08・12年五輪金メダリスト)のインタビューを聞いたことがあるんだけど、その時の彼のひと言にスポーツ選手として敬意を抱いた。「たとえ多くの試合に敗れたとしても、プレーを続けることさえできれば、ぼくはいつだってタイトルに飢えているんだ」と彼は言った。

自分にとっての世界選手権も同じことだと思う。今までたくさん失敗をしたけど、世界選手権に出場する以上はやっぱり優勝したいと思うだろうし、わずかな恐れや妥協も許されない。この信念が試合になった時にぼくを支えてくれた。ピンチになった時に何も信念がなかったら、絶対につぶれてしまうからね。

これまで、ぼくは団体戦でプレーする時は、かなり自信を持って戦うことができた。すごく強いチームにいるわけだから。でもシングルスでは誰にも頼ることはできない。技術もメンタルも、自信を持って戦わなければいけない時に、いつも逃げてしまっていた。でも今回は逃げなかった。「戦いの場から逃げるくらいなら、自分のことを信じよう」。ぼくは自分に逃げ道を作らなかった。

今年の初め、劉国梁監督の提案で、バック面のラバーを粘着性の『狂飈』に変えた。世界でも、この組み合わせのラバーを使っている男子選手はぼくだけじゃないかな。『狂飈』はあまりパワーが出せないから、バック面に使うのは女子選手というイメージがあった。ぼくは頑固なところがあって、周りの言うことを聞き入れない時もある。だから今回の用具変更は大きな挑戦だった。

最初は慣れなかったし、もどかしさも感じたけど、我慢して続けることを選んだ。そして実際に試合になってみると、思っていたようなやりにくさはまったくなかった。むしろ自分のコントロールとリズムに相手が対応できていなかった。だから、どんな結果になろうとも、世界↖選手権ではこれで戦おうと決心したんだ。この決心によって、その後のすべての試合で、ぼくはより迷いのないプレーをすることができた。

今改めて考えてみると大会を迎える前、自分の中で無意識のうちに多くのものが変わっていった。そのすべてが、ぼくにとって優勝のキーポイントになったんだ。

 

●–決勝の相手が張継科でなかったことを残念に思いますか?

 世界選手権でチャンピオンになれたことで、ひとつの壁を突き破ることができたと感じている。たとえ相手が誰であってもね。ぼくが最後にタイトルをつかみ取ることができたのは、自分自身に打ち克つことができたからさ。それは決して他の誰か、張継科や許昕、樊振東や方博に勝てたからじゃない。

それに決勝での方博は、普段の方博とは違っていた。許昕と張継科に勝った方博だったんだ。その方博にぼくは勝つことができたんだから、決勝に対しての心残りは一切ないね。

 

●–最後の質問です。馬龍、あなたはすでに世界選手権のチャンピオンですが、それでもまだコンプレックスはありますか?

 ずいぶんなくなったように感じるよ。このタイトルはぼくにとって、長年の努力がようやく実った結果なのだから。

●●●

技術は早熟型、メンタルは晩成型。それが馬龍という選手だ。

18歳の時、06年世界団体選手権で世界代表デビューを果たし、09年世界選手権個人戦を迎える頃には、優勝候補の一角に名を連ねていた。張継科が世界と五輪のタイトルを獲得しても、樊振東という若き怪物が現れても、「最強」という言葉が一番似合うのはこの男だった。しかし、ビッグゲームでは勝負所で、突然スイッチが「OFF」になってしまう。

眠り続けていた龍は、迎えた10回目の世界選手権で、自らの内に潜むタイトルへの渇望に気づいた。26歳での初優勝。こんなに時間がかかるとは思わなかったが、「心・技・体」が揃い、まさに満を持してのタイトル獲得だった。

次なる大舞台はリオデジャネイロ五輪。「もし決勝で張継科と馬龍が当たったら、どちらが勝つ?」と中国の記者数人に尋ねてみたが、いずれも「やっぱり張継科だ」との返答だった。蘇州大会ではニアミスに終わった両雄の「科龍大戦」。リオ五輪で実現するとしたら、それはまさに世紀の一戦になるだろう。■

 

文=陳偲婧(『乒乓世界』2015年6月号より転載)

翻訳=柳澤太朗

馬龍●マ・ロン

1988年10月20日生まれ、遼寧省出身。13歳の時に北京市チームに移籍し、04年世界ジュニア選手権を制して頭角を現す。06年世界選手権団体戦で初の世界代表となり、それから10大会連続で世界選手権に出場。09・11・13年大会はいずれも男子シングルス3位だったが、今年5月の蘇州大会で初優勝。12年ロンドン五輪団体金メダル、12年男子ワールドカップ優勝。右シェーク両面裏ソフトドライブ型。世界ランキング1位(2015年6月発表)

 

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