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アフリカの巨星、アルナが語る「ぼくの卓球は路上から始まった」

リオ五輪で「アルナ旋風」を巻き起こした

 

ぼくは簡単に負けるわけには

いかなかった。

彼のお金を無駄にすることは

できなかった。

だから一生懸命プレーしたんだよ

 

一躍、世界の卓球ファンがナイジェリアの「クアドリ・アルナ」の名前をその脳裏に刻んだのは14年のワールドカップ(ドイツ)だった。

シバエフ(ロシア・当時世界37位)、日本の松平健太(同27位)、唐鵬(香港・同16位)に勝って、張継科(中国・世界チャンピオン)と堂々の打ち合いを展開し、地元ドイツの大観衆を熱狂させた。その9カ月前までは237位で、ワールドカップ当時は73位だったアフリカの選手が世界を驚愕の渦に巻き込んだのだ。その後、世界ランキングは30位まで上昇。

その年の『ITTF(国際卓球連盟)スターアワード』(年間で最も輝いた選手賞)に選ばれ、世界ランキング30位以内に名を連ねた初のアフリカ選手となった。

彼が日本選手のようにもっとワールドツアーに出ていれば、ランキングを上げることができるだろう。

しかし、実際にはほとんど自費参加。その費用はアフリカの選手にとっては大きな負担として重くのしかかる。そんな彼をナイジェリア卓球協会のワヒド・エニタン オショディ会長が支援している。

「14年にITTFスターアワードを獲得する前に参加したほとんどの大会は、彼が援助してくれた。彼は私のほとんどの試合を観てくれて、まるで父親のようだし、彼の援助や励ましはとてもありがたいものです」とアルナは以前語っている。

ワールドカップの2年後にアルナが再び世界中を驚かせたのは16年のリオ五輪での活躍だった。3回戦で荘智淵(チャイニーズタイペイ・当時世界7位)、4回戦でボル(ドイツ・同13位)という世界のトップ選手を破り、アフリカ選手として初のベスト8入りを果たした。

五輪会場では、ナイジェリア応援団だけでなく、アフリカの関係者が「ビバ! アフリカ!!」と興奮し、歓喜の声をあげた。

2-4で敗れたボルは試合後にコメントを残した。

「彼のプレーはぼく自身も、そして観客をも驚かせたと思う。彼が強いのも、良い状態で試合に入ってくるのもわかっていた。そして、ぼくが良いプレーをしなければ彼に勝てないことも理解していたけど、予想以上の強さだった。0-3とゲームをリードされ、挽回しようとしたけど遅すぎたね」

準々決勝では馬龍(中国)に敗れたものの、アルナは試合後にアフリカ勢初のベスト8という結果に興奮を隠さなかった。

「ぼくはこのリオ五輪での自分のパフォーマンスにとても満足していて、とてもハッピーだ。こんな試合ができるなんて、ぼくは自分でも想像してなかった。

馬龍はとても厳しい攻め方をしてきたので、ぼくは自分のプレーができなかった。特に得意のフォアハンドが十分に使えなかったのは残念だ。彼のプレーはとてもアグレッシブだったし、馬龍は勝者に値する選手だった。

でも、リオ五輪がぼくに与えたものは大きい。自分のキャリアの新しい1ページになった」

一方、勝った馬龍はアルナをこう称賛した。

「アフリカの選手がオリンピックの準々決勝まで進むことがどれほど難しいことなのか、ぼくは十分にわかっている。しかも、彼は格上の荘智淵とボルに勝って、上がってきた。彼のフォアハンドとフットワークはとんでもないほど強かったよ。アルナは国際大会での経験も少なく、相手は彼がどんなプレーをするのか、どのくらい強いのか十分にわからない。だから、いざ試合をするとみんなその強さに驚いてしまう。試合中に彼のプレーに順応するのは大変なことだ」

陸上競技やサッカーとは違う。緻密な練習を幼少期から何万時間も積み重ねて、ようやく世界の舞台に立てると言われる卓球の世界で、アフリカ選手がヨーロッパやアジアのエリート選手に勝つために越えるべき高いハードル。

経験を積むべきワールドツアーには経済的な理由で数えるほどしか出られないアフリカの選手が、世界のトップクラスに勝つことの困難さを想像する時、アルナの勝利と成し得た成績の重さは他の選手のそれとは全く違う。

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●─12年のロンドン五輪が初めてのオリンピックでした。

アルナ 1回戦でスペインのマチャドに勝った。当時、ぼくはまだ世界237位だったけど、マチャドは77位だった。次にトルコのバン・ボラに負けたけど、ロンドン五輪でのパフォーマンスは悪くなかったね。

 

●─そして14年のワールドカップは君の卓球人生を変えたね。

アルナ 当時、ぼくは世界73位だったけど、格上のシバエフ、松平健太、唐鵬に勝って、張継科と戦った。

 

●─あの時、君は世界に衝撃を与えた。君の卓球、その打球もすごかった。準々決勝の張継科とも大接戦だった。

アルナ あの大会のことは忘れることができないね。ぼくは経済的な問題でプロツアーに参加できなかったけど、あの大会の後にナイジェリア卓球協会会長のワヒド・エニタン オショディが個人的にお金をサポートしてくれたので、ワールドツアーにも参加することができて、6カ月で世界ランクを30位まで上げることができた。

ぼくは簡単に負けるわけにはいかなかった。彼のお金を無駄にすることはできなかった。だから一生懸命プレーしたんだよ。

最初はワールドカップでプレーすることがハッピーだったけど、やりながら自信も沸いてきて、世界中の人を驚かすことになったんだと思う。

 

●─あのワールドカップが君が世界のトップステージに行くためのターニングポイントになったね。

アルナ もちろん、そうだね。それまでで最高の瞬間だった。あれで人気を獲得して、多くの人に名前を知ってもらえたし、『ITTFスターアワード』をもらうこともできた。ある意味、別の卓球の世界への出発点になった気がする。

でも、多くの人に知られたことで、ぼく自身の卓球が相手から相当に研究された感じがした。だから、15年にはなかなかそれまでのように勝てなくなってしまった。だから、16年には自分のやり方を少し変えようとしたんだ。

リオ五輪では強い自分が戻ってきた。15年には負けながらも多くのことをぼくは勉強することができたと思っている。そして、リオ五輪では自分としては最高の成績を残すことができた。

 

●─リオ五輪の前には緊張するとか、重圧を感じることはなかったのかな。

アルナ あのオリンピックの前に出場したハンガリーオープンやドイツオープンである程度の手応えはあったんだ。ドイツオープンでは荘智淵に0-4で完敗だった。しかし、次にリオ五輪の3回戦で荘智淵と対戦した時にはぼくは4-0で勝つことができた。みんなが驚いていた。でも、ぼくは負けたことから多くを学んでいたし、ビデオを観て研究したことで、リラックスしてフルパワーで彼と戦うことができた。

荘智淵と試合する日の朝、メンタルもフィジカルも良い状態だった。

「さあ、今日は自分にとっての新しい一日だぞ。この機会に恵まれたことを神に感謝しよう」と言い聞かせた。すごくポジティブな状況だった。

 

●─次にビッグスターのボルとの対戦だった。

アルナ オリンピックの2年前くらい前にボルとやったことはあったけど、やはり負けていた。でも荘智淵に勝った後に、ぼくには新たなモチベーションが沸き上がり、もっと大きな目標が生まれてきていた。ぼくは当時世界7位の荘智淵に勝ったのだから、ボルに対してもモチベーションは高かった。

第1ゲームで4-0くらいでリードするとボルは「今、一体何が起きてるんだい!?」という顔をして、明らかに動揺していた。ぼくのプレーは悪くなかったし、彼も途中から自分を取り戻したと思うけど、遅すぎた。最終的に4-2で勝つことができた。

 

●─その瞬間、君の気持ちはどうだった?

アルナ 表現できないくらいうれしかった。今年(17年)、10月のポーランドオープンで優勝したこともそれと同じくらいうれしいけどね。

今回のワールドカップ(10月/ベルギー・リエージュ)でぼくは水谷隼に完敗したけど、次は彼に勝ちたいと思っているし、荘智淵の時のように、リベンジしたいと思っている。ぼくは今までの経験でもそうだけど、試合を重ねていけばいくほどいろいろなことを学んで、だんだん良くなっていくんだ。

 

卓球場にぼくは

卓球台を寄付している。

ぼくが小さい頃に

サポートしてもらったことへの

お返しなんだよ

 

アルナは、ただ強いだけではない。ナイジェリアの若い選手たちを物質的にも、経済的にも支援している。そして、自分の国に卓球台の寄付を続けている。

そのことを聞くと「ただ、ぼくは自分が若い時にしてもらったことを返しているだけさ」とさらりと言う。

大きな支援をもらい、もしくは大きなスポンサーもつき、1年に何度も海外へ遠征し、スタッフが大勢ついていく日本とは違う。

アルナは五輪で準々決勝まで進んだというのに、今でも自費参加でワールドツアーに向かう。彼は1試合たりとも無駄にできないと思っている。その一方で、自国の卓球を盛り上げようと、自らが支援に立ち上がっている。

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●─ナイジェリアのジャーナリストのオラレカン・オクサンが君のことを評して「彼はナイジェリア、いやアフリカでは真のスターだ」と言っていた。

アルナ 確かにリオ五輪の期間中、そして大会後に卓球の人気も、ぼくの人気も高まっていることを感じるし、ナイジェリアではスーパースターと言えるかもしれないね。

 

●─君はナイジェリアの若い選手たちを経済的にもサポートしていると聞いたけど。

アルナ 6人の若い選手をサポートしている。でも、それは以前、会長にぼくが援助してもらったことを思い出しているだけだし、ぼくがしてもらったことをぼくはただ返しているだけなんだ。そして将来、ナイジェリアからもっと偉大なスターが生まれることを望んでいる。だからその6人は無料で用具を提供してもらえるようになった。

それに、いくつかの卓球場にぼくは卓球台を寄付している。でも、それもぼくが小さい頃にサポートしてもらったことへのお返しなんだよ。

 

●─君のゴールは何なんだろう。

アルナ ぼくはもっともっと卓球が強くなりたいし、もっと上達したい。そして成績をあげていくことがぼくの国にとって、そして多くのサポートをしてくれたスポンサーに対する恩返しになるんだ。

良い選手になること、良い人間になることがぼくのベストゴールなんだ。そして、さらに強くなり、さらに良い成績をあげていく。常に今の自分より向上することが目標なんだ。ぼくは今でももっと自分が強くなると信じている。

 

●─卓球というのは君にとって何だろう?

アルナ ぼくは卓球をとても楽しんでいる。卓球はぼくのすべてなんだよ。ぼくの人生そのものだよ。ぼくは卓球が仕事だし、卓球によって自分の家族にすべてを与えている。それはお金だけじゃなくて、人生のすべてなんだ。

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アルナに最後の質問をした時に、一瞬、彼が答えるまでに間が空いた。ほんの数秒だったのかもしれない。横に並んだソファで彼の目を見た時に、少し目が潤んだように見えたのは気のせいだったかもしれない。路上で卓球を始めた少年が多くのサポートでここまで来た。その道のりをその瞬間に振り返ったのか。

しかし、彼の言葉に感動したのは私だ。用具にも練習場にも指導者にも恵まれないアフリカの選手が、世界の舞台で躍動する姿。自分の家族へ、支えてくれた人へ、そして神に感謝するクアドリ・アルナはまさに光り輝くスターだ。

それが、このアフリカの選手を表紙にした理由だった。     ■

 

★クアドリ・アルナ

1988年8月9日生まれ、ナイジェリア・オヨ州出身。07年大会で世界選手権に初出場し、14年男子ワールドカップでベスト8に入り一躍注目を集め、同年のITTFスターアワード(男子)を受賞。09年アフリカカップ優勝。16年リオ五輪では荘智淵、ボルという世界の強豪に完勝し、ベスト8に進出し、世界を驚かせた。直後の世界ランキングは25位(自己最高位)。10月のポーランドオープンでは初のツアー優勝を果たした。世界ランキング27位(17年11月現在)、2021年6月現在は、世界ランキング21位

 

 

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