<卓球王国2013年4月号より>
Zhang Xielin チャン・シエリン
張燮林は、魔球を操りながら、1960年代の中国の第一期黄金時代の中心にいた。
また指導者としても、絶対的な強さを誇る中国女子の礎を築いた男である。
中国卓球の伝統を作り上げ、彼は後輩に道を譲った。
インタビュー=今野昇
通訳=偉関絹子
翻訳協力=謝静
写真(ポートレイト)=渡辺友
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選手時代、紅双喜から裏ソフト用の廃棄処分のラバー(トップシート)をもらった。それが張燮林が使った粒高ラバーだった。当時、誰にも知られず、このラバーを使いこなし、張燮林は「魔球を操る男」と言われた。
初めて出場した世界選手権は61年の北京大会。団体戦には選ばれなかったものの、シングルスでは日本の星野展弥、三木圭一などを破り、準決勝に進む活躍を見せた。
そして語り継がれる試合は65年世界選手権リュブリアナ大会の団体決勝、日本対中国。トップで張燮林は日本の新鋭・高橋浩と対戦。それまで、日本選手には一度も負けたことのない「魔術師」は、高橋のバックハンド攻撃、前後の揺さぶりからのスマッシュなどで16ー21、21ー12、16ー21と敗れた。
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北京大会では団体戦に参加していなかった。その時中国には、王伝耀、容国団、楊瑞華、荘則棟、徐寅生など、いい選手がいっぱいいたからね。団体戦の選手を決める時、指導陣の考え方は保守的だった。議論する時、私に投票してくれたのは容国団ただひとりだった。私の卓球のやりにくさは彼が一番知っていたからだ。
団体戦のメンバーは指導陣が全面的に考えた結果だった。王伝耀はベテランで、何度も中国チャンピオンになっていたし、容国団は腕が少し落ちているけど世界チャンピオンだった。徐寅生は世界戦経験者。それに若手の荘則棟と李富栄が選ばれたことで、楊瑞華も自動的に外された。
北京大会の後、63年プラハ大会、65年リュブリアナ大会に私は出場した。特にリュブリアナで日本の高橋浩さんに負けたことはよく覚えているよ。日本人選手の中で、唯一負けた人だからね。
当時、私が傲り高ぶっていたのがいけなかった。仲間の王志良が訪日し、帰ってきたら、「高橋はカットマンをあまり得意としていない」と私に言った。たぶん王志良が彼に勝ったためかもしれない。私は彼の話を聞き、油断した。準備不足だったことは確かだ。
高橋浩さんは頭の良い選手だった。リュブリアナの団体決勝のトップで、私はどうせ勝てるだろうと勝手に思っていたので、試合の準備ができていなかった。試合に集中していくのが遅かった。出足で高橋さんのフォア前のサービスに対して、私が普通に彼のバックへツッツキを返した。粒高ラバーなので、ツッツキが切れていない。高橋さんにいきなりバックハンドで攻められた。すごく質の高い攻撃で、そのボールをカットできなかった。続けて2、3球も同様に打たれ、ボールの正確さにびっくりして、焦り出した。
その後、本人と会う機会ができ、彼が話してくれた。私との一戦のために、実に長い時間をかけ、私の卓球を研究し、対策を立てていたそうだ。その成果で、試合中のドライブには決定力もあり、スピードも速い。ほかの日本人選手よりもボールが速かった。三木圭一さんや木村興治さんや荻村伊智朗さんよりも速く感じた。
試合の出足でいきなり打たれた高橋さんの3球目バックハンド攻撃に驚き、私のプレーが乱れた。さらに高橋さんはなかなか私の好きなプレーをさせてくれなかった。変化をつけて前後に揺さぶったり、スマッシュやドライブをうまく組み合わせてきた。彼は非常に賢い攻め方をしてきた。
特に、彼のバックハンドは特別だった。打球点が早いので、台から下がれないし、間に合わない。カットマンの特長が発揮できなかった。彼の卓球センスの良さを感じたね。その試合に負けた後、私は王志良に怒ったんだ。「高橋はカットマンが得意でないって言ったのは誰だ!」ってね。
高橋さんの基本技術が良く、卓球センスもいいと言う理由は、彼がシングルスで対戦した王志良との試合でも明らかだった。
王志良はぶっつけサービス(トスの上昇途中でボールを激しくラケットにぶつけるサービス)が得意で、今はこのサービスは禁止されたが、当時はルール上使うことができた。5本のサービス(21点制)のうち、王志良が4本を取る。しかし、サービス交替後、高橋さんがていねいに王志良のカットに対応し、ドライブでしっかり5点を取り、6対4でスコアを逆転してリードしたシーンがあった。高橋浩さんは基礎技術が素晴らしく、強い選手だった。王志良には嘘をつかれたよ。高橋さんはカットマンにも強い選手だった。
それ以外に、印象に残っている試合は日本の荻村伊智朗さんとの試合だね。63年プラハ大会のシングルス準々決勝で荻村さんと当たった。それは知力を闘わせた試合だった。3対2のフルゲームで勝った。中国で荻村さんは「智多星」というニックネームをつけられるほど頭脳的なゲームをやる人として有名だった。プラハでの試合は見た目はそんなに派手ではないが、頭脳対頭脳の試合だったね。荻村さんの戦術は、私との長いラリーを避け、「速戦速決」で速攻を仕掛けてきた。
カットマンとも良い試合ができた。65年リュブリアナ大会の準々決勝、ドイツのシェラーとの対戦だった。この時は2対3で負けた。最終ゲームは25対27だった。シェラーがカットで、私が攻撃する展開になり、最初の3球で20分もかかった。一球で、私が200本か300本のドライブをした。その後、促進ルールで行われた。
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