友だちと卓球チームを作り、
工場内の卓球愛好者に
交流試合を申し込んだ
張燮林の少年時代、中国は1953年ブカレスト大会で世界選手権に初めて出場している。そして57年ストックホルム大会では男女団体で3位に入賞。59年ドルトムント大会では容国団が男子シングルスで優勝し、卓球というスポーツが国威発揚の先駆けになり、まさに「国球」として中国人民を熱狂させた。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●
記憶違いでなければ、小学5年生の夏休みだった。市場の台でずっと卓球をするのはもう飽きてしまい、友だちと自らチームを作り、すぐに校長先生の支持も得た。私がリーダーの役割を果たし、近所の工場へ手紙を書いて、工場内の卓球愛好者に交流試合を申し込んだ。だいたい5人か7人の対抗戦だった。工場側も学生との卓球交流を喜んで受けてくれた。もちろん、工場へ行けば、ちゃんとした卓球台もあり、ボールもあるからうれしかったね。
私たちがこういう練習方式を採用したことで、大人とボールを打つことができるようになって、卓球への意識はより高まっていった。
6年生になると、受験勉強で忙しくなり、卓球を練習する時間が少なくなったけど、中学校へ入ったら、夏休みはやはり同じ形式で交流試合をやっていた。年齢とともにレベルも上がって、卓球に対する興味が深くなった。中学生の頃はペンの表ソフト速攻型だった。当時はまだ裏ソフトがないからね、表ソフトだけ。また、板にサンドペーパー(紙ヤスリ)を貼って打つ人もいたね。私が12歳の頃だね。
私の卓球歴を語ると……長いぞ。エピソードはいくらでもある(笑)。中学生の頃、卓球はまあまあできたけれど、その時代は選手のそばにコーチなんていなかった。
上海のひとつ良いところは、市内の中心部には、個人経営の卓球場がたくさんあったことだ。卓球場は卓球の達人がたくさん集まる場所でもあった。達人たちは指導員として、指導もしている。はっきりと覚えているが、当時、指導員と打つには1時間0・8元(現在は1元が約14円)で、台の貸し切り料金も一台1時間0・8元だった。その時代、「コーチ」と呼ばれる人は達人よりももっとレベルが高く、上海では相当な有名人だったんだ。
当時の0・8元は学生の私にとっては大金だった。卓球台さえ借りられなかった私たちは、もちろん指導料も払えない。ただ、卓球場は入場制限がないので、私はいつも達人(指導員)たちのプレーを見に卓球場へ通った。その時見たのがひとりのカットマンのプレーだった。カットのフォームがとてもきれいで、私の心を揺さぶった。それがきっかけで、私はペンホルダーの攻撃マンからペンホルダーのカットマンへスタイルを変えた。その時代、上海にはシェークのカットマンはいなかった。
見ていた達人は地元ではとても有名な人だよ。兪仁さんと楊開運さん。楊開運さんはその時は指導員だったけど、のちに上海男子チームの初代監督になった。
私よりも前に世界選手権に出たカットマンは、欧陽さん。広東出身で、カットがとてもきれいだったね。また、兪仁さんのカットもうまかった。楊開運さんは徐寅生さんと李富栄さんが上海チームにいた頃の監督でもあった。
私が上海チームの代表として試合に出たのは1958年。57年に高校卒業後、進学するため西安へ移った。専門は気象学。気象学者になろうと思ったこともある。ただし、西安の気候風土になかなか慣れず、結局上海へ戻った。卓球では西安にいた頃、西安の達人全員に勝った。
当時上海の試合のやり方は今と違って、まず行政区単位で行う。区内のトップ5人が区の代表として、市の試合に臨み、市の代表のトップ5の座を争う。市の代表は上海市の代表として、全国大会へ出るという仕組みになっていた。
西安から上海へ戻った当時、上海はすでに代表チームを作っていた。上海体育学院競技指導課というもので、徐寅生さん、李富栄さん、楊瑞華さんたちが所属していた。私は彼らと違ってアマチュアの選手だった。
私が初めて全国大会へ出られたのは1958年の全中国選手権・広州大会。上海からは3チームが派遣された。上海紅隊、上海藍隊、上海黄隊。紅隊は徐寅生さん、楊瑞華さんなどの1軍のプロ選手。私がいた藍隊は上海市労働組合が集まった、工場労働者などの愛好者トップ5で結成したアマチュアチームだ。黄隊は上海チーム2軍の若手予備軍。
当時は私もすでに上海汽輪機廠に就職していて、藍隊のチームメイトは、上海で最も伝統があり有名な実業団のひとつである郵電局チームや、港務局チームの選手だった。私以外は30過ぎの年寄りばかりで、仕事を持ちながらのアマチュア選手だけど、実力は黄隊より上だった。その当時上海市の試合は公平なもので、アマチュア選手32名によるリーグ戦を行い、トップ5は必ず全国大会へ出られたね。
翌年、1959年、第一回全中国運動会(4年に一度の国内オリンピック)が北京で開催された。上海では誰でも参加できる大規模の選考会が行われた。代表5名のうち、国家チームに入っていた楊瑞華さん、徐寅生さん、李富栄さんが、すでに代表に内定し、上海代表の残りの座はあとふたつしか残っていなかった。競争は非常に激しかったが、結果は私と薛偉初さんが勝ち残って、代表の座を手に入れた。
そのときは上海汽輪機廠で働きながら、卓球を続けていたのだが、全中国運動会の代表になった後、確か大会の2、3カ月前に、大会に備えて上海体育宮で合宿を行った。そのときに仕事はしていないが、まだ正式には上海チームには入っていなかった。
ツイート