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[魔球を操った男]張燮林【前編】

廃棄ラバーだった

粒高ラバーを使い、

世界選手権代表の座をつかみ、

3年北京大会で3位に入賞

 

 上海でメキメキと力をつけていった張燮林だが、彼の潜在力をより発揮させたのは粒高ラバーという用具だった。ペンホルダーのカットスタイルで片面のみに粒高ラバーを貼り、世界的にも珍しいプレースタイルと「魔球」と呼ばれた彼のカットの変化は、工場で捨てられた廃棄ラバーとの出合いから始まった。

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1958年の全国大会を経験し、59年の第一回全中国運動会を終えた後、59年の年末か1960年の初めに、私は上海チームに入った。当時、上海チームに呼ばれた時はすごく迷っていたんだ。

実は、上海チームにあまり入りたくなくて、そのまま、工場で働きたいと思っていた。上海汽輪機廠は全国重点企業になっていて、外から汽車がそのまま中へ入っていくほどのすごく大きな工場だった。今は大手企業の上海電気グループに合併されたけど、当時は上海汽輪機廠へ入るのは容易ではなかった。だから上海チームから話があった時は迷っていた。

卓球を続けるか、工場へ戻るか。考えても結論は出ず、1年余りの時間が経った。そんな時に上海体育委員会のある人にこう言われた。「上海では、君みたいな労働者がいっぱいいるんだよ。でも、君みたいに上手な卓球選手がなかなかいない。どう決めるか、君が自分でよく考えてごらん」。

確かに私と同じような労働者が上海に数え切れないほどいる。卓球が強い人を数えれば、第一回全中国運動会に出られたことで、私は上海のトップ5の実力だった。結局、考えた末に上海チームへ入ることに決めた。

1961年に開催される世界選手権北京大会を前に、全国各地から選抜選手108人が集められた。これは「108将」と呼ばれた。私は上海からの一員として、1960年12月20日に北京へ向かった。その日をはっきり覚えているんだよ。これによって、私は それから数十年近く、ずっと卓球と付き合うことになるんだ。

徐寅生さんたちが国家チームにいた頃、国家チームの選手枠はすべて埋まっていた。1961年の第26回世界選手権北京大会に備えるため、常に上海や広東などの良い選手を揃え、国家チームの選手に混ざって試合を行ったのだが、国家チームの選手は私に勝てなかった。

当時、面白いことに、私のいた上海チームが、徐寅生、楊瑞華、容国団、王伝耀のいる国家チーム1軍に勝っていたんだ。しかし、3軍と4軍によく負けていたけどね。

北京大会に国家代表として選ばれることは予測できていた。ひとつの理由は、当時の私は上海チームの選手だけど、国家チームの選手にほぼ勝っていたからね。当時のヨーロッパは強くて、カットマンも多かったので、その対策として全国の優秀なカットマンが108人の中には多くいた。それから、レベルによって、108人を3つのチームに分け、私が国家チーム1軍に配属され、首都工人体育館で練習していた。2軍は北京体育館、3軍は北京チームの訓練基地に配属された。

記憶違いでなければ、世界選手権北京大会のシングルスへ出場した中国選手は、男女合わせて五、六十名もいた。主催国ということもあり、多くの選手が参加できたと思う。

私も世界選手権のシングルスに出場したけど、もちろんそれは誇りに思っている。ただ当時は情報が少なかったね。ハンガリーチームが1960年に日本を訪問した際、日本選手がハンガリーの名将であるフェレンク・シドとゾルタン・ベルチックを破った。その頃から日本はすでにループドライブを使っていた。このようなことを当時の我々は知らなかった。その後ハンガリーチームが訪中した際、その情報をいっさい教えてくれなかった。しばらくして、新聞かどこかからの情報で、日本が新しく、秘密武器であるループドライブを発明したことが判明した。急いで、主力選手の練習相手として、余長春や薛偉初や胡炳権などの選手らに日本選手のループドライブを真似させた。もし、情報が入手できていなかったら、北京大会で、中国は日本チームに負けたかもしれない。

1959年に容国団が世界チャンピオンになった後、国家チームが全国各地へ行って、報告公演や交流試合を行った。当時、私がいた上海チームにも来た。私の対戦相手は容国団だった。1960年頃、私はすでに上海チャンピオンになっていて、国家チームの主力選手だった徐寅生、李富栄、楊瑞華、王伝耀に勝てたけど、容国団だけに負けた。

当時、容国団は国内では好敵手が多く、負けることも少なくなかった。だから、容国団がすぐにみんなの目標になったし、良い刺激を与えた。容国団ができるなら、自分たちも世界で勝つ可能性がある。外国選手を恐れる必要はない。

私が当時使った粒高ラバーは、紅双喜がもともと裏ソフト用のトップシートとして作ったものだった。それをひっくり返して貼って、粒高ラバーとして使ったんだ。1959年か1960年頃だね。生産工程で出てきた不良品が、廃棄処分する予定で工場にあった。

偶然にも私が手持ちのラバーを使い切っていたから、使えるものであればと廃棄処分のラバーをたくさんもらったんだ。もったいないから試しに打ってみたら、すごく使いやすいものがあって、偶然自分に合うラバーを発見した。うれしかったね。

当時、上海チームが使うラバーは私が管理していたので、ラバーがほしい選手がいたら、私がメーカーへ連絡する。それがきっかけで、紅双喜がたくさんの「廃棄ラバー」をくれた。

「廃棄ラバー」に替えたら、私は上海チャンピオンにもなったし、国家チームの選手たちにも勝った。このラバーが一般のものとは異なることに気がついたのは私自身だった。練習の時、相手はその違いをあまり感じていないようだった。上海チームで練習した時も、チームメイトとしょっちゅう打っていたけど、みんなは違和感がないように打っていた。ラリーも普通にきれいに続いた。ところがいったん試合になって、技術を細かく総合的に使うと、相手が変化に対応できなくてプレーが乱れる。それは私にとって想像もしなかったことだし、このラバーは思わぬ効果をもたらしてくれた。おかげで上海チームにいた頃は試合の結果はほぼ3対0だった。その後、61年北京大会の前にも、上海代表としてすでにこのラバーを使用していた。

スポンジのない粒高の一枚ラバーで、ペンホルダーの片面にしか貼っていない。その「廃棄ラバー」の効果に自分も驚いたが、使いやすかったよ。特にループドライブに効果があった。

61年の北京大会は非常に困難に満ちた大会だった。シングルス3回戦の星野展弥さんとの試合は3対2で辛勝した。星野さんは当時の日本チャンピオンで、卓球の基本技術がとてもいい。一球一球の勝負になって、お互いにすごいラリーをした。良い試合をできたという意味で、星野さんにとても感謝している。

三木圭一さんとの試合、準々決勝は3対0で勝った。三木さんのドライブはすごく回転がかかっているので、カットする時には粒高ラバーが効果を発揮していた。当時、私が使っていた粒高ラバーの粒はそれほど高いものではない。通常の表ラバー(ゴムシート部分を含めて)の1・5㎜より少し高いだけの1・65㎜。今よく使われているものは1・9㎜だね。

もしその頃に今の粒高ラバーがあったら、私はもっと世界を制覇していたかもしれないね(笑)。

 〈後編へ続く〉

 

 

「 廃棄処分のラバーをたくさんもらったんだ。

もったいないから試しに打ってみたら、

すごく使いやすいものがあって、

偶然自分に合うラバーを発見した。うれしかったね」

 

チャン・シエリン

1940年6月25日、中国・江蘇省生まれ、上海で育つ。1961・63年世界選手権シングルス3位、63・65年の世界選手権団体優勝に貢献し、63年に男子ダブルス、71年に混合ダブルスでそれぞれ優勝した。72年に女子コーチに転身し、75年からの団体8連覇にコーチ、監督として貢献。95年天津大会まで女子監督を務めた

 

 

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